またもや物凄い勢いでご無沙汰しておりますが、皆さま如何お過ごしでしょうか。文明の利器ケータイを使っての初めてのエントリーを試みるであります。

仕事が忙しくなると、パソコンの前にいる間は常に何かしらやらねばならぬことが発生してしまい、ご存知のとおり長文をねちこく綴るタイプの私はなかなか時間が作れず、故にブログを放置してしまうのです。えへへ。

そこで先日ケータイを買い替えまして、これがまた非常に使いやすい逸品だったもので、憧れの「ケータイからサラっとエントリー」とゆースタイルを試してみようかと!
本来的にはなるべく綺麗に写真を撮って、改行の位置を調節しながら極力レイアウトに気を遣いたい性分なのですが、ここはぐっと堪えて、更新することを優先しようと思うのです。

…が、どうですか?今までのままの方が良いかしらん?
どちらでも良ければ、当面こんな感じで参ります!





081019



うおお、ブログ始めて2ヶ月くらい経つのに、まだ11エントリー!少なっ!遅筆!牛歩!こんばんは!
物事がゆっくり進む様子を例えて「牛歩」と言いますが、牛って本気で走ったら相当速いんじゃないでしょうか。と言うことは、「牛歩」=「本気でやればスゲー進むのに、怠けてのらくら進んでる様子」?私はそんなことないぞ。けっこう真面目にブログに取り組んでいるぞ。まったくモー。


さてさて、今月無事に誕生日を迎えて29(肉)歳になったのは前回のエントリーの通りなのですが、今回はその決意表明などしてみようかと思います。と言いますのも、毎年誕生日には「○歳の目標」的なものを決めておりまして、今年はせっかくブログがありますから、書き留めておこうと考えた次第です。


↑の写真右のゴールドの指輪、誕生日プレゼントに夫から貰ったのであります。
9月にバーニーズで発見し「こ、これを買っていただきたい…!(児玉清風に)」とお願いして、1ヶ月後に漸く手元にやってきた愛いやつです。Malcolm Betts(マルコム・ベッツ)とゆーハンドメイドがウリのブランドで、24金とシルバー925のコンビ。ぽっちりとひとつぶだけあしらわれたアンティークダイヤ、暖かみのあるマットな質感(徐々に育ってピカピカになるらしい)、程良い存在感…どれを取ってもお気に入り。

ここまでなら普通に「ジュエリー買ってもらってうれしいな話」なんですが、更にお気に入りな理由がありまして、それはリング内側の刻印。買ってもらう際、夫に「29歳になるわらわに、はなむけになる言葉を贈ってたもれ」とお願いし、刻印が済んで誕生日に指輪を手にするまで秘密にしておいてもらったのです!
…あ、なんか乙女っぽくて恥ずかしくなってきたんだぜwww


ま、そんなこんなで私の元へやってきたリング。「化粧落としてから寝れ」とか「しっかりしろ」とか書いてあったらどうしよう死ぬわ!!と恐る恐る内側を覗いてみたらば、日付と共に「誠実に、自分らしく」的な意味のごく短い英文が刻まれておりました。私のダメなところと良いところ、両方知っている夫ならではの、簡潔で的を射た良い言葉だと有り難く受け取りました。


そしてちょうど最近、長年頭を悩ませていた疑問に答えが出たところだったんです、「人生に意味は無い」と。
何を悩んでなんでそんな結論に辿り着いたのかはまた今度のお話にして、とにかく人生に意味は無い。だから生まれてから死ぬまで、自分の責任で、自分で荷を負って、自分の思うようにしたらそれで良い。そう考えた時から、自分の中がとても風通し良く、呼吸しやすくなり、追い風すら吹いている様な爽快な気分。


なので、29歳はこんな感じで行きますお。「誠実に、自分らしく、やりたいと思ったことは何でもやる」!
今までだいぶ頭でっかちで腰が重くて自分で自分を雁字搦め系の人でしたので、やりたいかもーと思っても面白くないかもしれないからいいやー失敗したらヤダからいいやーと流してきてしまったんですが、それじゃあ面白くなるもんも面白くならんだろう!失敗とか超面白いじゃんか!と言うことに今更気付いたんです…。何ですかね、人生も牛歩なんですかね、私。


ちゅーわけで、そんな決意を胸に、短い人生、楽しみまくってやります!








081013



いつの間にやら半月近くご無沙汰してしまいましたが、イチローの盗塁ばりの何気無さでこっそり復帰。つい先日29(肉)歳になりましたみねこですこんにちは。もうすぐ30歳なので、せめて、風呂掃除中にうっかり頭上のシャワーから水出して服ごとびしょびしょになるような失態は避けたいところです。がんばるぞ。


さて突然ですが、「心ってどこにあるんだろう」とか考えたことありませんか。
そうでしょうあるでしょうあるでしょう。あるって言って。
脳みその中にある気もする。でも胸が(特に心臓のあたりが)痛んだりもする。
それとも体の中に物理的なモノとしてあるんじゃなくて、非物理的なモノとして存在してる?
そもそも心って何なんだろう。

哲学の世界では大別すると「心は非物理的な存在であり、世界はこの非物理的な存在と物理的な存在の2種類によって構成されている」とする「二元論」と、「世界は物理的な存在のみによって構成されている。即ち、心がもし世界を構成する存在のひとつであるならば、心もまた物理的存在である」とする「物的一元論」とがあるそうですが、古代ギリシアの時代から賢人たちがよってたかって議論した挙げ句いまだ答えが出ていない重大なテーゼのひとつです。


例えば、
脳が機能を停止している状態は、死んでいるということなのか。
愛する人が全ての記憶を永遠に失ってしまったとしたら、まだその人を愛せるのか。
Aという人を脳とそれ以外の体に分解して、脳には別の体を、体には別の脳を用意して出来上がった2人のどちらがAさんなのか。
自分が認識している、感じているこの世界は実在すると信じていいのか/証明できるのか。
ヒト以外の動物、植物、モノに心はあるのか/証明できるのか。
心と神経と意識と記憶とは、どのような関係なのか。


「その人」を「その人」たらしめているもの、ヒトの定義とは一体何なんでしょう。


例えば、
私の親族のMさんという方が3年程前から「アルツハイマー型認知症」という病気に冒されています。ご存知の方も多いと思いますが、この病気は人間の記憶を奪います。旅行に行った場所、昔住んでいた家、春になると桜が咲くということ、猫は陽だまりが好きだということ、得意な料理のレシピ、家族の名前、自分の名前。脳細胞の中に蓄えられた今までの人生の記録、数々の幸せな出来事の記憶が「無くなってしまう」のではなく、それらに「アクセスできなくなってしまう」のです。

それらが二度と戻ってこないものだと分かった時、「じゃあ私と思い出を共有していたMさんはどこに行ってしまったのか?」と、共有する相手のいない記憶のあやふやさに戸惑うと同時に、Mさんに対する変わらない愛おしさを実感しました。少なくとも私にとっては、「記憶」だけがその人をその人たらしめているものではなかったのです。


私の心が知覚しているから、私はこの世界に存在する。
だから、私の心が消えれば(=死ねば?)、この世界は消える。かもしれない。
認知症のような病は、少しずつ世界が消えていくような感覚なのでしょうか。
それが長く生きた人間に対する神からの救済なのか罰なのか伺い知ることはできませんが、ただ今は恐ろしいと感じます。

心がどこにあるのかは分からないけれど、唯一、手放してはいけないもの、な気がする。
しかし人間には、それを最後まで守りきる手段がないのかもしれない。