
いつの間にやら半月近くご無沙汰してしまいましたが、イチローの盗塁ばりの何気無さでこっそり復帰。つい先日29(肉)歳になりましたみねこですこんにちは。もうすぐ30歳なので、せめて、風呂掃除中にうっかり頭上のシャワーから水出して服ごとびしょびしょになるような失態は避けたいところです。がんばるぞ。
さて突然ですが、「心ってどこにあるんだろう」とか考えたことありませんか。
そうでしょうあるでしょうあるでしょう。あるって言って。
脳みその中にある気もする。でも胸が(特に心臓のあたりが)痛んだりもする。
それとも体の中に物理的なモノとしてあるんじゃなくて、非物理的なモノとして存在してる?
そもそも心って何なんだろう。
哲学の世界では大別すると「心は非物理的な存在であり、世界はこの非物理的な存在と物理的な存在の2種類によって構成されている」とする「二元論」と、「世界は物理的な存在のみによって構成されている。即ち、心がもし世界を構成する存在のひとつであるならば、心もまた物理的存在である」とする「物的一元論」とがあるそうですが、古代ギリシアの時代から賢人たちがよってたかって議論した挙げ句いまだ答えが出ていない重大なテーゼのひとつです。
例えば、
脳が機能を停止している状態は、死んでいるということなのか。
愛する人が全ての記憶を永遠に失ってしまったとしたら、まだその人を愛せるのか。
Aという人を脳とそれ以外の体に分解して、脳には別の体を、体には別の脳を用意して出来上がった2人のどちらがAさんなのか。
自分が認識している、感じているこの世界は実在すると信じていいのか/証明できるのか。
ヒト以外の動物、植物、モノに心はあるのか/証明できるのか。
心と神経と意識と記憶とは、どのような関係なのか。
「その人」を「その人」たらしめているもの、ヒトの定義とは一体何なんでしょう。
例えば、
私の親族のMさんという方が3年程前から「アルツハイマー型認知症」という病気に冒されています。ご存知の方も多いと思いますが、この病気は人間の記憶を奪います。旅行に行った場所、昔住んでいた家、春になると桜が咲くということ、猫は陽だまりが好きだということ、得意な料理のレシピ、家族の名前、自分の名前。脳細胞の中に蓄えられた今までの人生の記録、数々の幸せな出来事の記憶が「無くなってしまう」のではなく、それらに「アクセスできなくなってしまう」のです。
それらが二度と戻ってこないものだと分かった時、「じゃあ私と思い出を共有していたMさんはどこに行ってしまったのか?」と、共有する相手のいない記憶のあやふやさに戸惑うと同時に、Mさんに対する変わらない愛おしさを実感しました。少なくとも私にとっては、「記憶」だけがその人をその人たらしめているものではなかったのです。
私の心が知覚しているから、私はこの世界に存在する。
だから、私の心が消えれば(=死ねば?)、この世界は消える。かもしれない。
認知症のような病は、少しずつ世界が消えていくような感覚なのでしょうか。
それが長く生きた人間に対する神からの救済なのか罰なのか伺い知ることはできませんが、ただ今は恐ろしいと感じます。
心がどこにあるのかは分からないけれど、唯一、手放してはいけないもの、な気がする。
しかし人間には、それを最後まで守りきる手段がないのかもしれない。