普段めったにテレビを観ないわたしですが、
記憶から消せない衝撃的なシーンがいくつかあります。
・1985年 8月 12日 日航機123便 御巣鷹山墜落事故
もう20年以上も前だけど、当時小学生で夏休みだったこの日
ブラウン管に映った黒煙をあげる飛行機の残骸。
ショックだった。
後に大人になって、子供を持ってからこの事故を扱った
『沈まぬ太陽』 (山崎豊子著) を読んだ。
もちろん作品中では「日本航空」ではなく「国民航空」の
労使紛争などに焦点が当てられた長篇小説(全5巻)だが、
中の『御巣鷹編』を読んで、日航機の事故と無関係だと思う人は
たぶん、いないだろう。
小学生のお子さんを1人で123便に乗せた母親のエピソード、
犠牲者の妊婦さんのお腹の子の月齢が6ヶ月を過ぎていた為
犠牲者数が1人増えたエピソード・・・
無論、そこには520の命のエピソードがあったのだろうけれど、
母親として、小学生当時とはまた違ったショック、恐れを抱いた。
事故の3年後の夏に、1人で国内線に乗った時には
やっぱり、怖かった。
そして「知る人ぞ知る」だけれども、日本航空は個人的
(でも間接的)に関係のある航空会社。
そんな事もあって、いまだに自分自身で思い入れの強い事故と
なっている。
・1995年 1月 17日 阪神・淡路大震災
まだまだ寒かったこの真冬の朝。
登校前にニュースを付けてまず目に飛び込んできたのが、
落ちた高架道路の映像。
一瞬、どこで何が起こっているのか分からなかった。
大都市の崩壊について沢山の事を考えさせられた。
当時は東京に住んでいて、一度大雪が降ればほとんど全ての
交通機関が麻痺するような大都市が、阪神・淡路大震災の
被災地のような状況に、どれだけ対応できるのかと。
そして、事態を憂いながらも、ボランティアとして駆けつけもしない
自分には、何を語る資格も無いと痛感した。
結局ただの傍観者で、本当の辛さなど解っていない。
募金をして、暖かい部屋で変わらぬ日常を送っていたに過ぎない。
今のどこかの国を批判する資格は、わたしには、無い。
・1995年 3月 20日 地下鉄サリン事件
実は、このニュースを初めて見たのは、空の上だった。
この日は、初めて渡米した記念すべき日だった。
昼過ぎの飛行機に乗るために成田空港へ行くのに友人が
車で送ってくれた。 都心部を抜けるときに、随分規制がかかって
警察の車が多いなぁ、と思っていた。
けれどその後しばらく会えなくなるので、ラジオも付けずに
友人と別れを惜しんでいたので、事件は知らなかった。
春休み中ではあったけれども、普段なら何かとゼミやサークルで
登校していた大学時代。通学には地下鉄千代田線を使っていた。
飛行機の中で大画面でニュースを見て、思わず溜息が出た。
ある意味、人生を分けた日だったのかも知れない、と。
・2001年 9月 11日 米中枢同時テロ
今日からちょうど5年前。
当時はケンタッキー州のルイビルという街に住んでいた。
長男が1歳半頃のこと。
最初にテレビを付けた時、WTCのビルの1つから煙が出ていた。
興奮してマイクを持つアナウンサー、その横で何事かとビルを
仰ぎ見る人々。 泣き叫ぶ人。 カメラのシャッターをきる人。
誰もがその後に起きる事を想像していなかった。
それでもその映像は、映画のワンシーンかと思った。
数分の後、両ビルの後方に一機の飛行機が見えた。
何かを考える間もなかった。
映画よりも、CGよりも鮮やかに、滑らかに飛行機がビルに
吸い込まれた。
思考能力が停止するという経験は、記憶にある限り
あの時だけだ。
その後数十分間、身動きもできなかった。心底、怖いと思った。
この事件については、テレビ報道を観ただけでは終わらなかった。
数日後に家に来たアメリカ人女性は、AirForceの待機兵である
夫の身を案じていた。 通常は貨物機のパイロットの職にあり、
時々日本へ行く国際線を操っていた子煩悩でジョーク好きの彼は、
その直後召喚されアフガニスタンへと赴いていった。
同じ敷地内に住んでいた中東の男性を見かける機会が増えた。
平日の昼間に、近所を散歩していた。 毎日。
イスラム独特の装束に身を包み、ターバンを巻いた彼は
自身の信念如何にかかわらず、アメリカ社会での生活から
締め出されていた。
買い物にも仕事にも行けない、そんな日々に耐えていた。
そして、わたし達日本人だって、無害では過ごせなかった。
ある日系の会社では倉庫に爆薬が仕掛けられたし、
普通に車を運転していても、すれ違うアメリカ人の車から
パッシングされたり、「国へ帰れ」と怒鳴られた事もあった。
この時ほど、人種の坩堝であるアメリカにいて
「外国人」という立場を思い知らされた事、
寂しく思った事はかつて、そしてその後も無かった。
この直後、キリスト教についてもっと知りたくなって、
しばらくの間教会に通ってバイブルスタディーの先生
(日本で16年宣教していた)に本当に沢山の質問をした。
結局、武力や政治を抜きにして、ごく一般のアメリカの
キリスト教徒たちは、テロの犠牲にあった方々だけではなく、
わたしが見かけた近所のイスラム教徒のような境遇の
人々の為にも祈りを捧げている事が解った。
結局、報復のムードを盛り立てたのは、国の上層部だったような
気がしてならない。 善良な個人は、怒りも憎しみもある上で
それよりも今、国の中が力を合わせよう、みんなで乗り切ろう、
としていた。
わたし達日本人は・・・ 目にする日本の対応が自衛隊派遣の
賛否ばかりだった事に、失望した。
もちろん、好きでアメリカに滞在しているとはいえ日本の首脳陣の
動きへの米市民の反応を、在米日本人達も個人レベルで
受け止めていた事、やはりかなり負担に思った部分もあった。
”United We Stand”
テロ後のアメリカの合言葉。
この中の ”We” が全世界、国や宗教を超えたものになれたら
いつか世界平和が実現するのかも知れない。
怒りと哀しみを抱えた一国だけの為ではなく。
今も続く戦争。 イデオロギーの問題で括ってしまえるのだろうか。
米兵も2600人以上、そしてそれを上回る数の現地の市民達の
尊い命が失われ、今日もバグダッドでは自爆テロで20人以上が
命を落としたと聞く。 どこまでも解決策など無いのに、延々と命を
犠牲にしてまでも、他者の信念を受入れる事は難しい事なのか。
勝つ為にではなく、共存する為に。 もちろん、双方が。
アメリカという国は好きだ。 その強気な姿勢も、好きだ。
けれども、戦場の兵士が国を想う詩を国歌として
幼少時代から国民の精神に叩き込んできたこの国に、
本当の平和を目指す心が(政治的に)あるのかどうかは、疑問だ。
それでも、これからそれぞれの国を背負っていこうとする人達、
未来に生きてゆく子供たち。
彼らには、どうか一つでも多くの、誰かが愛する命を
守っていって欲しい。
奪い傷つける事からは、痛みと哀しみしか生まれない。
今日のNYでの5年目の追悼式。
当時の怖さが戻りそうで、事件当日のVTRは一切見なかった。
けれど、四度の黙とうの時間は一緒に祈りを捧げさせてもらった。
いまだにテロで失った家族を想い深い悲しみにあって、それでも
「これ以上哀しい想いをする人達を増やしてはいけない」と
終戦と平和を願う、被災者の家族や愛する人達の言葉を、
その痛みとともに、もっと真摯に受け止めねばならない時期に
来ているのではないだろうか。
そんな事を思った、5年目の9月11日だった。
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