今日、行きつけの床屋さんで、いろいろ話をしていて、興味深い話になった。

 

 

 

店長曰く

 

  外国の人は、「日本語出来る?」と聞かれて、「出来る!」というけど

  「じゃ、しゃべってみて!」と言われると、出てくるのが・・・

 

  スシ・・・サシミ・・・フジヤマ・・・

 

  だった・・・

 

 

というもの。

 

彼らは真面目に、それを以て「日本語が出来る」と思っている部分があるらしい。

 

 

 

 

 

 

なるほど、と思った。

 

通常、学校や、勉強、という部分にフォーカスすると

こんな「どんなに小さくても出来る部分に注目する」という見方はまずしないし、されない。

 

概ね、出来ていない部分に注目し、

その部分を強化しなさい、と言われ、そして強化しないといけない、と思う。

 

しかし、こんな見方は(するのもされるのも)、勉強を楽しくはしない。

 

 

 

 

 

 

「出来ていない部分に注目する」という見方をする人の発想、というのも、

何となくわからないではない。

 

「このぐらいで『出来る!』というのが、自分を甘やかすことに繋がる」

のが一つにはあるのだろう。

 

 

 

 

一方、小さなことで「出来る」という実感を持つことで、育つものもある。

 

それは「自信」。

 

その自信は、積み重なると、時として、とてつもない力を発揮することもある。

だから、小さな成功をバカにはできない。

 

 

 

 

出来るという実感を持つことで

「もうしなくていい」と自分を甘やかす方向に向かうとするなら・・・

それは、基本的にそれが「嫌なこと」「それを我慢してやっている」ということではないか?

 

「嫌なこと」「我慢してやること」でない事に対して

やれるという「自信」を持つことが出来たら・・・

それは、おそらく、放っておいてもやるのではないだろうか?

 

 

 

 

「出来る」の基準を緩めること、これによって

・それが楽しくなる

・それを使いやすくなる

・それが上達しやすくなる

 

という効果が期待できる。

 

やってみる価値はある。