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Palam

在日コリアンの音楽家たちによるグループ・パランのBlog

パランのコンサートに向けて、カルテットの合わせをしています。

今日は11時から17時くらいまで行いました。

さすがに終わるころには、皆さん疲弊気味でした。

忙しい中、このベートーベンの大変な曲に取り組んでくれているカルテットの演奏者の皆さんに、本当に感謝です。

合わせは、非常にマニアックな言動飛び交って、とても楽しんでます。

ホン・スピョの作品は、音に出してみたら、非常に面白い曲です。西洋クラシック音楽のアカデミックな技法を必死に取り入れようとしながら、どこかやはりまったくそれとは相容れない、アジア的、土着的なものを感じさせる部分もあったりで、興味深いです。


北朝鮮の音楽事情とかに詳しくなりたいのですが、いかんせん資料に乏しいのが残念です。 一度、北朝鮮行って実際にあっちの音楽家の人に聴いてみるのが一番良いんだろうけど・・・

今の北朝鮮の音楽分野の状況というのは全く分からないし、分からないことについて、多くを語ることはできません。

すべて推測と人から聴いた話になってしまう。

あたかもそれを正しい情報として書くことは、無責任だと思うので、知っている少しのことしか書けないです。


でもとにかく、こういった作品(体制に寄り添う作品ではない、純器楽作品)を演奏してみること自体が、個人の顔の見えづらい国の凝り固まったイメージから脱却する手だてとなるのかもしれません。

まず何よりも、作曲家への敬意を忘れずに演奏したいと思います。

演奏する者のエゴを捨てて、作曲家の曲の、「声、メッセージ」を代弁するに過ぎないんだという謙虚さを忘れないように。


というわけで、ぜひぜひ、ブログを訪れてくださった方で、ご興味ありましたら、コンサート聴きにきてください~♪コンサートの詳細はこのブログ内、「コンサートのお知らせ」を見てください。




occasionという単語の意味を引くと「[・・・の/・・・にふさわしい](特定の)時、場合」っていう風に出てくる。

パランはこれまで年1回の演奏会をメインに行ってきて、毎回みんなの努力により観客を集めている。 年に1回だから、その時、そのわずか2時間ばかしの、occasionに向けて主催側はいろんな準備に追われて忙しさと不安とに苛まれる日々を送る。


ところで、この演奏会というものが抱える「何かスペシャルなかんじ」は、どうやって醸成されたんだろう。

特にクラシックの場合はすごい。

「気軽にクラシック」とか、「気ままにクラシック」などの名がつくコンサートは、この「スペシャル感」をアイロニカルに強調してくれる。

社会的に作られたイメージの問題もあるし、あとは、「楽器演奏」の、「特殊な技能、高度な身体的メカニズム、誰もが出来るわけじゃない特権化された領域」というとっつきにく感もある。そしてそれらが紡ぎだす音の精妙さは時に威圧的でさえある・・・


こう考えると、パフォーマーと聴衆との間には、すっごい壁がある。


逆説的に考えると、きっと、世の中の人々が何か1つ楽器を弾けたり、i-podで受動的に聴くだけではなくて歌ったり、演奏したりすることが習慣化すれば(昔はもっと生活の中の些細な催事に音楽や歌や踊りがあったし、音楽以外の娯楽はここまで過剰に溢れていなかった)、コンサートの「スペシャル感」は薄らいで行くんじゃないかな。

そしてコンサート会場費はもっと安くなる(と願いたい)。


でも、この考え方は、そんなことやっている場合じゃない人たちや、声を出せない人、耳の聞こえない人、体に不自由がある人たちの事を考えていない、非常に安易な考えかただ・・・

楽器ひとつやることには相当なエネルギーがいるのはたしか。


ただ、演奏家は、「コンサートにきてください」と言うのと同時に、「聴くよりも弾くほうが数百倍楽しい」ということをアピールするのも必要かな。

強圧的に断言するのはキライだけれども、「弾くより聴くが易し」であるとともに、「聴くより弾くがいとおかし」なんです本当に。


あした、NHKのドレミファワンダーランドという、とても楽しい番組の収録がある。たのしんで弾いてこようとおもいます。


by 任


ベートーヴェンの通常「ラズモフスキー四重奏曲」と呼ばれる3曲の四重奏曲は、交響曲第3番(1804)と、第5番「運命」(1807)が書かれた間の1806年、36歳の時の作品(同じ年に第4交響曲も書かれている)。

サリヴァン著「ベートーヴェン その精神的発展」という本でサリヴァンさんは、今回演奏する第3曲目(作品59-3)の緩徐楽章について、

「この奇妙な緩徐楽章からは、すでに幾多の批評家が指摘するように、なにかしらきわめて異常なものを印象づけられる。それは、遠い先祖の古い日々の記憶がベートーヴェンの意識のなかによみがえり、忘れさられていた違った絶望がふたたびこみあげてくる、とでもいえようか。ここには、はるか古えの埋もれていた苦悩、運命の桎梏に号泣する声が聞かれる。」

と、なんだかずいぶん詩的な表現で熱く語っている。

たしかに、緩徐楽章は、そのあとに訪れるフーガの印象に匹敵するくらいの「異様な感じ」がある。もちろんこれは聴き手の状態や、その他あらゆる内的・外的環境に左右されるだろうけど。

でもこの解釈自体が、書いた人の主観から発せられた言葉だし、語り口も、その人の個性からもちろん自由であるはずはないわけで、批評家の仕事というのはつくづく奇妙な仕事だなと思ってしまう。

なんにせよ、ベートーヴェンの曲について語ることはすごく難しい。


そしてなんにせよ、やっぱり、メタ言語ともいうべきその音楽を5感で感じる行為そのものが、肉声に近づく唯一の方法かなと。

その時代背景や、ベートーヴェンが影響を受けた哲学者とか英雄的精神とかそういったものを意識して聴くのはもちろん大事だけれど、それを抜きにしての、社会的空間とか言葉から離れた領域で伝わる、「極私的コミュニケーション」、この「聖域」を、大事にして音楽に携わりたいと思う今日このごろです。


by任