能登半島地震から約2ヶ月。53日間の避難所生活から今は我が家の被害の少ない部分、というか廊下で繋いだ二階建ての増築部分に私の部屋があってそこで寝起きしている。増築部分はトイレ、洗面所、洗濯機、風呂、とキッチンを除く生活機能はあると言える。と言ってもトイレのドアは閉まり切らないし、風呂は給湯器の故障で使えず業者待ちだ。

 電気、水道、ガスは使えるのでキッチンで母は調理をしてくれるし、出来る時は手伝っている。ありがたいことに親類縁者からの頂き物で食べる物には困っていないし、今ではインスタントや非常食ばかりということもなく美味しい食事にありつけている。

 食事をするのは玄関近くの十二畳の本来は客間だった部屋だ。本来、三部屋あった客間も奥の二部屋は隣の廊下から分かれた廊下と建物が倒壊したため隙間をブルーシートで塞いであるし、襖が建物に傾きで動かなくなってしまっている。昨年、京都から友人達が来た際に泊めた客間で今では夜に父が寝ている。

 我が家は七尾市から「全壊」の一つ下、「大規模半壊」と判定された。公費解体ならば建築型仮設住宅に入れる、しかし、自力での自宅再建では仮設には入れない。賃貸型応急住宅(みなし仮設住宅)なら利用出来るが、近隣には存在しない。さらに応急修理制度を併用する場合は私の場合、罹災証明書が発行された3月某日から半年がみなし仮設住宅の入居期間となる。再建計画の目処が立たず、いつ工事を出来るか分からない現在の状況から、被害の大きな我が家の再建工事をするとなったら生活する場所が無くなる、ということになるのだ。住家に関しては行政の「住まいに関する支援」という共通の手札はどれも使えない、「詰み」状態に思える。いっそ、潰れて火事にでもなってれば考えることもなく楽だっただろう。被災後の片付けに疲れる度にそう思う。

 これから家をどうするか、保険や市の罹災証明書等の進捗を代々世話になっている建築会社の社長さんに共有させてもらいながら相談している。一つ参考に実際の数字を出すが我が家は農協から共済金が損害割合100%で500万出ることが分かっている。

「建物はしっかりしてるし、まだ壁を落としてワイヤーを掛けて引っ張れば直せますよ。1000万で足りないくらい。公費で壊すにしても立て直すならさらに1500万から2000万は掛かってもっと大きな額になる」

 これだけで済めばまだ良かったのだが、あくまでこれは住家だけにかかる金額だ。我が家の住家に含まれない部分の被害も含めると再建には更に3000万以上掛かり、80歳近くになる大ベテランの社長さんを持ってしても「あっちはどうしたら良いか、俺もずっと考えてる」状態だ。先ほどの500万で住家の再建費用の半分足らず、住家に含まれない部分の再建費用も含めた総額では1割程度にしかならないと思われる。

「仮に家をこのままにしておいたとしても、途中で嫌になりますよ」

「嫌になったらこのストーブでもひっくり返して燃やしますよ」

 そう言った私に社長さんは「そんなことしたら捕まりますよ」と笑いながら両手を縄で縛られるポーズをしながら答えた。「その時は私が家と一緒に燃えていなくなるので捕まりません」とは思っていても口には出さなかった。

「壁落として直すにしても、壊すにしても、物を減らすこと、要らない物は捨てること。良いですね」

 社長さんはキッパリと父に言った。直すにしても、壊すにしても家財はこのまま置いておけないのだ。私の部屋がある二階建ての増築部分に当然、収まり切るわけがない。

 そう、世帯主である私の父親。私と母のストレスの種だ。自分達で作業するにしても、ボランティアの人に作業してもらうにしても父の買った本や焼き増ししたDVD、古いPCにブラウン管のディスプレイや封筒といったゴミを退かすことから始まることが多い。「世帯主だからっていくらでも物を置いて言い訳ないでしょう」と母は今更ながら言った。私が大学生になって実家を離れて、戻ってきたら子供の頃に家族で食事をした居間と寝ていた部屋の二部屋が父の私物で占有されていた時は驚いたものだ。今となっては仕舞い込んできたゴミも苛立ちも地震で噴き出した状態となっている。「物を減らす」、被災した身で出来る間違いない防災、というか被災後のためのアドバイスだ。そもそも物は日頃から整理した方が良い。

 私は10人以上のボランティアの人達が来てくれて、ボランティアのリーダーさんが「大事な物だから」と言いながら崩れた本を整理してから倒れた箪笥を起こしてくれた時は感謝と申し訳なさでいっぱいになった。これまでの父の所業を書こうとすると身内の恥である以上に書ききれなくてうんざりする。

 怒りと悲しみに震える母と情けない言い訳と無駄口ばかりの父を見てると居た堪れなくなってくる。避難所から夜勤に行っていた頃は仕事帰りに家で文字通り父の寝首をかいてやろうとすら思った。不愉快なほどに自分本位でマイペースな父は早起きだったし、結局家に着く頃には夜勤で疲れてやる気も失せたが。

「勘違いせんといてほしいし、責めてるわけじゃないけど(私の本名)がおらんかったらお母さん家におられんよ」

 一月半ば、中能登町まで洗濯に行った帰りに私と二人の車内で母がそう言ったのを覚えている。母は以前以上に用事がある時や私が県外に行く時は金沢に一人暮らしをしている妹のところに泊まっている。私が仕事に行くためにと母は家の片付けと家事に加えて、色んなところのボランティアに依頼して避難所から家に戻るために、そしてこの後の生活のためにと段取りをしてくれている。

 私が家からいなくなれば、母も少しは休める、言い訳に取られるかもしれないが、そう思いながら私は県外のイベント、友人達の元に行った。それに私を通して知人友人、これから知り合う人、そしてこのブログを読んでいる人に能登半島地震のことを知って、覚えていて欲しいと思う。 

「あんたがどれだけ大切な物だって言おうが、伝わらなきゃゴミなんだよ。ゴミを増やしてんじゃねえ」

 二月の夜勤明けのある朝、私は父にそう言った。父が物を減らすどころか、古本を買ってきたことを呑気にSNSに書いてることを気付いた私は流石に我慢ならず問い詰めた。

「あんたも俺も死に損ないだ。お祖母様も揃ってあの時家にいた三人死んでれば母はここを離れて妹のいる金沢に行けたんだよ」

 「私」でいたい、「私」でいようという気持ちを抑えきれない激情が突き破っていた。父は何も言葉を返さなかった。

 ああ、家族を失った人が羨ましい。死んでれば義援金も増えたし、そもそも自分が死んでればこんな怒りにも悲しみにも苛まされずに済んだ。地震の被害に見せ掛けて殺して、死んでおけば良かったか。いっそ死んだ人すら羨ましい……こんなことを思う自分は死に損ないだ。死んでれば楽だったと、その思いが私の意識の中で浮き沈みしている。

 死んだ方が楽だったと思う度に被災した直後の母と義妹の母との会話を思い出す。義妹の母は病院に勤めている方で連日忙しいのに仕事が休みの日だからと手助けに来てくれていた。

「助かります」

「助かってください」

 死んだ方が楽だと思うけど、死ぬにはタイミングを逃した。と思うことにしている。

 助けられる人間として、助けたいと思われる人間として、まだ「私」は死ねない。私のこと心配してくれる人、思ってくれる人、そんな大切な人達と楽しい時間を少しでもまた過ごせるように。まだ一年目のたった2ヶ月程度だ。平日は仕事、週末は物を減らせるように捨てる物を仕分けて掃除をする。今は「詰み」に思えても出来ることをしない理由にはならない。

 

追記

 

この上記を書き終えた夜に蕁麻疹を発症。精神より先に身体が限界を迎えたらしい。