2019年までの京都での生活を経た私は今、実家のある石川県七尾市中島町で生活している。

 七尾市は今回の能登半島地震で被害が大きかった輪島市や珠洲市よりも公共交通機関があり、被災前であれば能登中島駅から金沢駅まで、のと鉄道からIRいしかわ鉄道を乗り継いで特急を利用すれば1時間半ほどで着くことが出来た。私を知る人であればのと鉄道はアニメ「花咲くいろは」のこともあって知っている人もいるだろう。

 平日は仕事に行き、不定期に実家と親戚の仕事を手伝いながら、週末には車で金沢まで出て映画やゲームセンターに行きラーメンを食べ、たまにライブのため県外に遠征する。コロナウィルスによるパンデミックもあって良かったとは言えないが、幼少期に感じていた金沢までの距離感や退屈から思いもしなかった悪くないと思える数年だった。

 実家の仕事は課題が多く重圧を感じていたし、この重圧を誰かに一緒に背負ってもらうと考えることも子どもの頃からの足枷になっていた。田舎に、家に縛られない周囲の人間に対して疎外感を抱えていたし、そして面倒を被らなくて良い兄弟達を恨むことはなくとも羨んでいた。それでも京都での生活や趣味を介して知り合った知人友人のおかげで、周囲に求めてられることも、自分がやりたいことも出来るようになっていたと思う。

 1月1日、16時頃。私は一人で昨年中に奥能登の道の駅で買っておいたクラフトビールを飲んでいた。大晦日から二人の弟に妹そして妊娠中の義妹が帰省していたし、正月の午前中は父と来客の応対をしていた。午後からは私を除く兄弟と母は地元の温泉に行ったので束の間の一人の時間だった。

 最初の緊急速報が鳴り、揺れた時は自分のことよりも昨年5月の地震の被害が大きかった珠洲市の母の実家、叔父夫婦のことを心配した。七尾市で大きな揺れがあるということは奥能登ではもっと揺れが大きい可能性が高いというのは経験則となっていた。そして次の緊急速報の後にこれまでの経験したことのない身動きの取れないほどの揺れが襲ってきて停電した。

 目の前にあった小さなテレビを支えていた手を離し揺れが収まってから部屋を見渡した。実家は築年数が分からないほどの古い大きな家なのだが、兄弟が増えてから両親が増築した築20年程度の比較的新しい建物だ。積み上げた本やCDが崩れていたのは気付いていたが、幸い私を避けるように落ちていた。

 近くの自室にいた祖母が私の身を心配する声が聞こえ返事をした。そして、何度目かの大きな揺れがあってから来客があった時のために一人離れた部屋に待機していた父の声がした。父がいた部屋の近く、中庭を構成する四辺のうちの一辺の廊下と建物が潰れたらしい。これで少なくとも家にいた人間は無事が確認出来た。その後、弟から電話が来た。出掛けていた組も全員無事で身重の義妹を向こうの実家に送り届け、家に向かっているが路面が至る所で割れていて時間がかかるとの事だった。

 揺れも一旦収まり、停電で体が冷えてきた私は僅かに残っていたビールを飲み干し、家の様子を見ようと立ち上がった。視線の先には二段重ねたの大きな箪笥から上の段が落ちていた。もし箪笥の前に私がいたら無事では済まなかったかもしれない。他に辺り見回すと全身鏡も倒れていたが、帰省していた兄弟が寝ていた布団が敷いてあったので無事だった。他に倒れた物、倒れそうな物もなかったので私は意を決して古い建物の方へ向かった。

 剥がれた土壁で元の床が見えない廊下を進むと物が散乱する台所で祖母にいた。祖母は床の一画を埋め尽くすように落ちていたおでんを拾っていた。年始の来客が多い我が家にとって母が年末から仕込む大鍋のおでんを数日に渡って食べるのが恒例だった。ああ、私の、我が家の正月が終わってしまったと一瞬の悲しみを振り払い、祖母に手を怪我しないように声をかけ先へ進んだ。

 隙間だらけの床に壁、傷んだ障子に襖、畳に散らばる土壁、そして中庭の向こうに見える潰れた廊下の上の屋根。長年過ごした家はゲームのダンジョンのような荒廃した景色と化していた。

 17時頃、帰宅した母と兄弟と状況を伝え合い、急ぎ避難の準備をした。すぐに食べられる物と飲み物に毛布を運び出しているうちに辺りは真っ暗になっていた。懐中電灯を片手に繰り返される揺れと徐々に強まる冷え込みの中で少しでも空腹をしのげる物、役に立つ物がないかと探した。

 自室で寝ると家を出ようとしない祖母を無理矢理車に乗せてたどり着いた避難所、旧小学校の体育館は外よりマシとは言え寒かった。車にクッションとアイマスクを載せていたのでクッションを祖母に貸した。奥能登の親戚が多い母のスマホには安否の確認の連絡と被害の画像が次々と届いた。蝋燭と灯油ストーブの微かな明かりの中、聞こえる輪島での火事を報じるラジオと周りの不安そうな声。ライブ用のイヤープラグ、耳栓も持ってくれば良かった。大きな余震の度に翌朝、自宅が潰れているかもしれない不安に襲われた。あんなに朝が来るのを遠く感じた夜は無い。

 「一寸先は闇やね。こんなことになるなんて」、暗い避難所で横になりながら祖母が言った。でもその数時間後には「寒ておられん。私は家に戻る。もう大きな揺れはこんやろ」と口にした。私は「婆様、あんたさっき自分で『一寸先は闇やね』と言った口で何を言うとる。寝とるうちに潰れるかもしれんのやぞ」と諫めたことを覚えている。祖母は昨年、米寿を迎えたが持病も無ければ、痴呆も顕著なほどではない。「一寸先は闇」、それを口にしても自分が常に一寸先の闇の間際にいることには気付けない人間の本質を私は暗闇の中で見た。

 1/2からも沢山の出来事があったがキリがないので一旦、ここまでにさせてもらう。被災の前も後も自分より不便な生活や辛い思いをしている人が多くいることは想像するまでもない。しかし、それ故にこの能登で、ここで生きることを絶望も諦めも出来ない地獄に私は身を置いている。今の私は避難所と職場を往復する生活をしながらこの地震で命も家も残った喜びとともに残ってしまった苦しみに苛まされている。自分も家も潰れて、いっそ燃えて消えてしまえばとも思った。だからこそ私のことを気にかけてくれた人に、私の言葉を受け取ってくれた「あなた」に感謝を、有難うを伝えたい。ネットを介して私の言葉を受け取ってくれたあなたがいる日常に私の現実は確かに繋がっている。この現実を、地獄を背負って日常に帰る。

 

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