最近、不登校が多くなったと話題になることが多い。
様々な人物が、少子化なのになぜ不登校の件数が増えているのかということに関して考察をしているのを見かける。
しかし、私の目から見ると、彼らの不登校に対する考察は少しズレているように思う。
というのも、彼らは何の苦労もなしにということはないだろうが、普通に学校に行けていた人たちだからだ。
私も一応小学校、中学校、高校と全日制の学校に行けていた身ではあるが、不登校になりかけたこともある。
なぜ、不登校にならなかったかと言えば、親に無理やり行かされたからだ。
そのことによって、私の心の逃げ場は完全になくなり、首吊りによる自殺未遂を図った。
それは失敗に終わるわけだが、そのような最悪な事態になっても、学校に無理やり行かせる意味はあるのだろうか。
もちろん、行けるのなら行った方が長期的には得にはなる。
それは確かだ。だが、理論上正しいことと実際にできるかどうかは別なのだ。
高学歴の方が得をすることが多い。それは確かだ。しかし、だからといって皆が皆東大に行けるわけではないのである。
不登校もこれと同じことが言える。
「学校に行った方が良い」という意識があって、学校に行けるなら誰も苦労はしないのだ。
また、我が子のためを思うと、学校に無理やりにでも行かせた方が良いと思っている人もいるのかもしれないが、それは本当に我が子のためなのだろうか。
「我が子のため」、「自分のこのため」、というのは極端に言えば、すべて自分のためだ。
「相手にこうなってほしい」というのは自分の願望を相手に押し付けるエゴでしかないからだ。
私が不登校が考える不登校が増加している理由は以下の2つである。
まず1つは、現今の学校教育システムそのものの問題だ。
日本の学校教育では、効率的に平均的な能力を持つ人を育てることができる。
これは大量にある程度の能力を育てるには適した仕組みだ。
しかしながら、能力に偏りがある人や平均から離れている人は、クラスの中で浮く羽目になる。
これは誰でも想像できるだろう。
特に、コミュニケーションが苦手な人にとってはこの空間は苦痛でしかない。
自分だけ空気が読めない、自分だけ仲間はずれ、自分だけ集団から浮いているなど...
私にも似たような経験がある。
だが、そのような感覚はコミュニケーションが得意だった人間にはわからないのだ。
学校という場所はコミュニケーション能力に長けている人間にとっては楽しい場所になりうるだろう。
しかし、コミュニケーションがあまり得意ではない子どもにとっては苦痛でしかない。
私の場合はたまたま、周りに多くの心暖かい人がいてくれたおかげで何とかなったという側面があった。その意味では、周りの方々に感謝しなければならない。
しかし、コミュニケーションが苦手で、学校の苦痛を親にも理解してもらえず、友達もおらず、周りからはいじめられるという状況だったらどうだろうか。
その状況は恐らく本人にとって生き地獄以外の何物でもない。
学校教育は平均的な能力の人間の能力を底上げできるように設定されている。
すなわち、それは平均から外れていたり、個性的な人間にとっては不利なシステムなのだ。
よって、学校という特殊な空間になじめない人間が一定数でてきても何ら不思議ではない。
というよりも、現代の学校教育システムを作る際に、適応できない人間も一定数出ることを想定すべきだったのだ。
不登校は子ども自身に問題があるわけではなく、それを生み出しているのは教育システムそのものだ。
もう1つの理由は、学校が昔より相対的につまらなくなったからだ。
どういうことかを説明しよう。
現代のように情報通信技術が発達していなかった時代においては、仲間を作るコミュニティは限られた。
もちろん、個人の習い事で共通の仲間を見つけることはできるだろうが、それ以外の友達を作る場所は学校くらいしかなかったのだ。
だが、現代はどうだろう。
SNSでいくらでも友達を作ることができるし、ゲームやアニメ、漫画といった自宅で楽しめるコンテンツも山ほどある。
これらのコンテンツの面白さを、学校という場所の面白さが越えられない限りは、学校に行くのが苦痛だと感じる人がいたとしても何ら不思議ではない。
また、どうも気になるのが、不登校に対して否定的な見方をする輩が多いことである。
何度も言うが、私は行けるなら学校には行った方が良いと思っている。
しかしそれができたら不登校などこの世にいないのだ。
不登校で生きていくのと、無理やり学校に行って自殺する未来だったらどちらが良いのだろうか。
多くの人は、自殺する未来は避けたいはずである。
少しきつい文章になってしまったかもしれないが、とにかく不登校を作り出しているのは現代の学校教育のシステムそのものと、ゲームやアニメに面白さで勝つことができないつまらない授業の2点である。
以上が私が思う不登校が増加している原因である。