高校に入学したばかりの頃は、誰とも話さず勉強ばかりしていた。
今思えば、過集中と呼ばれる状態だったのかもしれない。
テストの成績にはムラがあった。
学力面においてはそこまでレベルが高くない高校だったということもあるが、英語は得意な方で順位も良かった。
それとは対照的に、理科や数学はあまり良い点が取れなかった。
だが、この段階ではまだ事態はそこまで深刻ではなかった。
人と関わらなければ、トラブルも発生しようがないからである。
しかし、高校生活の中で全く人と関わらないというのは無理な話だ。
時が進むに連れて私もクラスの仲間と関わるようになっていった。
この段階においてはさすがに多少の違和感を感じた。
何せ、コミュニケーションが上手く取れないのだ。
人の感情、言葉の裏にあるもの、暗黙の了解...
こう言ったことが一切わからないのだ。
自分の精神年齢が周りの人間と比べて圧倒的に劣っていることを実感する機会が何度もあった。
それでも周囲の心優しい人たちは私に気を使ってくれて、人間関係と呼んでも良いものができあがった。
ある程度仲が深まった人とトラブルになった時は心に深い傷が残った。
今思えば私が悪いのだが、当時はそれが分からなかった。
この頃から学校に行くのが辛くなった。
周囲の人たちに悩みを相談していたら、もう少し違う結果が得られたのかもしれない・
だが、私はそうはしなかった。
第一、何が困っているのかを具体的に説明することができないのだ。
人間関係において辛かった場面が繰り返し頭の中で映像として流れる。
毎日のように人生の中の辛かった場面が1日中何度も頭の中で反芻されれば憂鬱にならない人間の方が少ないだろう。
その癖、繰り返し頭の中に浮かぶ映像を上手く言語化することはできないのだ。
しかし、それを文章化するのにはあまりストレスを要さない。
これは自分でも不思議だ。
直接だと上手く言えない感情や考えも、文章を通せばある程度形にはなる。
だからブログのような情報伝達手段があって本当に良かったと思う。
文章という手段がなければ私は今まで感じてきたこと、あったことを人に伝えることは決してできなかっただろう。
嫌な思い出が映像として頭の中でしつこいほど繰り返し流れるうちに、希死念慮が強くなっていった。
これを人に相談して気持ちを楽にしたりとか、学校を数日休むだとか、他の手段はいくらでもあったように思える。
しかし、当時の私にそんな発想はなかった。
人間関係が全く上手くいかないなら死ぬしかない。
本気でそう考えていた。
何をするにも0か100、白か黒。
考え方がとにかく極端だったのだ。