・理想と現実

 

望月湊音がいつものように登校していると、ふと心の中にざわめきを覚えた。

 

心の中に、イデアの声が聞こえた。

 

「やぁ、湊音。ぼくだよ、ぼく。 昨日からどうしても君のことが気になってね、今日一日君の生活を心の中から見物させてもらうよ。」

 

「えぇ。」、湊音は思わず声をあげた。

 

周りの視線がこちらに集中する。

 

湊音は顔を赤らめながら逃げるように学校に向かった。

 

イデオは湊音の心の中の精霊を蹴散らし、湊音の心の中に侵入していたのだ。

 

湊音の心の中には闇が徐々に広がっていることはすぐに分かった。

 

中学校という空間は湊音にとって修羅場であった。

 

まず1時間目の体育の時間、彼は場所を間違える。

 

今日はグラウンドでTボールを行う日だったのだが、彼は今回の授業も前回までのバスケットボールの続きだと思って体育館に行ってしまったのだ。

 

チャイムが鳴って室内に誰もいないことに気づいた湊音は慌ててグラウンドに向かう。

 

2時間目の数学の時間、連立方程式の文章題。

 

教師が黒板を使って熱心に説明しているが、湊音は内容を全く理解できていないようであった。

 

「子ども1人の入場料をx円、大人1人の入場料をy円とすると、2x+3y=300, X+5y=600になるから....」

 

イデアがたまらず心の中から説明を行う。

 

しかし、湊音はそれでもなかなか理解することができなかった。

 

結局湊音がその文章題を理解することができたのは5時間目の歴史の時間のことであった。

 

イデアが心の中からしつこいほど何回も説明を行ったのだ。

 

他の教科の授業中も、給食の時も、トイレの中でも...

 

3時間目、4時間目、5時間目、1日が終わるまで彼の生活は苦難の連続だったことは言うまでもない。

 

1日の生活の中で何回も教師から注意を受けた。

 

更に致命的だったのは湊音には友達が1人もいないということだった。

 

能力が極端に低い者は、平均的な集団から弾き出される。

 

「境界知能」ということばが、ふとイデアの頭の中に浮かんだ。

 

境界知能、ネットで調べると「知能指数が70~84で、知的障害の診断が出ていない人の通称」という説明が出てくる。

 

つまり、彼らの存在は、健常者と知的障害の間に当たると解釈できそうだ。

 

イデアはそんな湊音の宿命を不憫に思った。

 

イデアの住んでいた世界には、不可能は存在しなかった...

 

何故なら元々彼のいた世界は人間の豊かな想像力によって作られた理想の世界だからだ。

 

そこには苦痛や痛みといった概念がない、まさに理想郷と呼ぶに相応しい。

 

そこでイデアは自身が愛する王女や素晴らしい仲間たちと幸せに暮らしていた。

 

だが、時代が進むに連れて人間は効率を追い求めるあまり想像力を徐々に失っていた...

 

人間の想像力が消えていくに連れて、彼の世界は破滅に向かう。

 

ついには彼が愛した国民、そして王女までも彼の前から姿を消してしまった。

 

イデアが人々から幸福を奪っている理由はただ1つ、彼の愛する世界を取り戻すことにあるのだ。

 

イデアは集めた幸福を、大きな壺に集めている。

 

壺が幸福で満タンになった時、彼がいた世界を取り戻す準備が整う。

 

湊音が帰り道をトボトボと歩いていると前から来た誰かとぶつかった。

 

「すみません。」

 

慌てて謝ってから前を見るとそこにはまるでヤクザのような格好をした40代くらいの男が立っていた。

 

「てめえ、舐めてんのか。」

 

男は怒鳴るなり湊音の顔面を殴り付けた。

 

湊音が地面に倒れる。

 

その時、イデアが湊音の心の中から外の世界に飛び出した。

 

「弱い者いじめは嫌いだね。」

 

そう言うと杖を使って円を描き、男の心の中に侵入した。

 

男の心の中はほとんど闇で染まっていたが、僅かに光輝いている部分があった。

 

その僅かな幸福を、イデアは杖を使って吸い上げた。

 

そして男の身体から出ると、杖を男の身体に向けた。

 

男の身体が吹き飛ぶ。

 

「今のうちに帰るよ。」

 

そう言うとイデアは湊音の心の中に戻った。

 

 

「ただいまぁ!」、南瀬ほのかは玄関のドアを開けた。

 

「おかえり!」、家の中から母である峰子の声が聞こえる。

 

「そういえば牛乳狩ってくるの忘れちゃったな。」、ほのかが手を洗っている最中に峰子が呟く。

 

「私、買ってくるよ!」、ほのかがそう言った。

 

峰子は感謝の言葉を伝えると内心「こんな良い子に育ってくれるなんて。」と涙ぐんだ。

 

「おつかい、おつかい♪」、ほのかが鼻歌を歌いながら近くのコンビニに向かっていると目の前に小さい生き物が現れた。

 

彼らは彼女の目の周りを飛び回る。

 

虫だと思ってそれを払いのけようとしたが、彼女はそれをやめた。

 

というのもそれがまるで天使のような姿をしていることが分かったからだ。

 

「もしかして、あなた、うちらのことが見えるの?」

 

その声を聞いて、ほのかは飛び上がりそうになった。

 

「て、天使が喋った?」

 

「失礼な。うちらは人間の心を守っている精霊よ。」、と彼らの中の1人が言った。

 

「複数人だと何かと不便だわ。みんな、合体するよ。」、精霊の中の1人が言った。

 

彼らは空中の一点に集まると、文字通り合体した。

 

ほのかが驚いていると彼はほのかに自身の存在の説明を行った。

 

「さっきも言った通りうちらは人間の心を守っている精霊よ。最近数多くの人間の不幸が奪われる事件が起きているの。それは恐らくデストロイアのせい。デストロイアは人間によって創られた想像の世界に住んでいた悪魔。時代が進むにつれて人間は想像力を失っていき、その世界の住人も徐々に消えていった。想像の世界の住人の多くはその事態を悲しんだ。でも、想像の世界の崩壊は悪訳にとっては絶好のチャンスになった。世界を守るヒーローの多くがその世界から姿を消したから。」

 

「ちょっと一旦ストップ!情報量が多くて整理がつかないんだけど、不幸を奪われた人は幸せになるんじゃないの?」と、ほのか。

 

精霊は言った。

 

「確かに不幸を奪われた人は一時的に幸せにはなる。でも、考えてみてよ。世界から苦しいことや辛いことが消えたら楽しいことや嬉しいことがあった時の喜びも半減する。不幸の感情なくして幸せは味わえない。つまり幸福と不幸は表裏一体なんだよ。しかも、デストロイアの目的は不幸を集めてこの世界を自分の思うままに支配することなんだ。彼にこの世界を支配させては駄目だよ...デストロイアの目的を達成させないためには想像力が豊かな人間が必要だ。想像力がない人間にはうちらの姿は見えない。つまりデストロイアから世界を守れるのがあなたってことだよ。」

 

「えぇ!私が!?」

 

「混乱するのも無理はないよ。今日はいろんなことを話しちゃったからね。明日から活動開始だからそれまでに気持ちの整理をつけておいて。」

 

「そんなこといったってぇ... えーと、精霊さんは何て名前なの?」

 

「うちらに名前はない。というより名前を持つ必要がないんだ。人間の心を守るのは名前がなくても出来るからね。」、ほのかの問いに精霊は即答した。

 

「そっかぁ。じゃあセイちゃん、精霊のセイちゃんって呼ぶね!」とほのか。

 

「勝手に決めないでよ。」

 

「まあまあ、良いじゃない。」

 

「うちらは外の世界にいると危ないから今日からほのかの心の中に入らせてもらうね。」と精霊。

 

「えぇぇ。そっちこそ勝手に決めないでよぉ。」、ほのかが困った顔をする。

 

精霊は指でほのかの身体に円を描くと、彼女の心の中に入り込んだ。