盟友にして敬愛する先輩の米倉誠一郎さんの退官にともなう最終講義があり、ヒマだったので聴講してきました。
 
米倉教授の専門は経営史。初期の明治期の士族授産の研究に始まり、ハーバード大学での日本の戦前戦後の製鉄業界の歴史研究から出てきた「川鉄モデル」、ベンチャー企業と企業家の研究を経て、最近のアフリカやアジアの新興国への取り組み。一見して脈絡がないようでいて、実は脈絡がない。でも本当のところは米倉さんならではの一貫した興味関心とスタイルでつながっているという数十年の仕事生活を振り返る講義は米倉節の集大成といった内容でした。いやー実にイイものを観せていただきました。
 

 

 米倉さんに始めてあったのは30年前のこと。そのときのことをいまでもはっきり覚えています。

そのとき僕は学生で、榊原清則先生のゼミで勉強していました。で、あるとき榊原先生の研究室で手伝いの作業を一人でしていたとき、突然ドアを開けて「榊原いる?」といって入ってきたのが米倉講師(まだ助手だったかも?)でした。この人誰かな?と思いながら、「いや、いませんよ」というと、「そうか、じゃあまた来るわ……」といって出て行きました。

 

ほんの20秒ぐらいの接触だったのですが、なぜこれが印象に残ったのかというと、僕はてっきり米倉さんが外国からのお客様だと勘違いしていまして、「中東の人にしてはずいぶん日本語がうまいな」と思ったからなのでした。

 

僕が1992年に講師として一橋大学で仕事をはじめたとき、これは後からわかったことなんですけど、あまり歓迎されていなかったんですね、これが。教授会では僕の採用に反対の人がずいぶん多かったらしい。で、もともと大学というのはひとりで研究室で仕事をするところなのですが、それに加えて、僕は「招かれざる客」という感じだったので、大学の自分の仕事場には言ってしまうと日がな一日誰も話をする人がいないんですね、これが。

 

最初の半年は講義もなかったし、完全に「放し飼い」。朝、研究室に入ってダラダラと勉強して、時間が来たら家に帰るという毎日の繰り返し。4月に入社して半年ぐらい、教授会とかそういうフォーマルな場所以外では、ほとんど誰とも口をきかなかったんですね、ええ。

 

そうしたらあるとき、米倉さんが僕の研究室に突然来て、「おまえ、最近はどんな本、読んでるんだよ?」とか「今まで読んだ研究でいちばんイイと思うのは何だ?」とか、頼んでいないのにいろいろと話をしてくれたのです。この人はずいぶん親切だなあ、とありがたく思いながら、「僕がいちばんイイと思う研究は、AbernathyのProductivity Dilemmaです」と言ったことを今でも覚えています。

 

で、それ以来、大学の研究会とか教授会で米倉さんの言動に注目していたのですが、大学という社会のなかで米倉さんの思考と行動がやたらと独自だった。周囲の人々とまるで違う。何につけても、自分が面白がっているとか、つまらないと思っているとか、そういう主観というか感情がストレートに出た物言いや振る舞いをするんですね。

 


で、僕は「この人と一緒にやっていくと、きっと面白いことがあるに違いない」と思ったわけです。以来、いろいろな局面で一緒に仕事をしたり、米倉さんの仕事に絡ませてもらったりしました。
 
結果的に面白いことと、そうでもないことがありましたが、米倉さんとやる仕事がいちばん楽しかった。これは間違いございません。いつも言っていることですが、米倉さんとは「意見や主張は合わないけど、気が合う」「ソリは合わないけど、ノリが合う」んですね。
 
米倉さんの最終講義を聴きながらつくづく思いました。この人がいなければ今の僕はなかっただろう、と。僕の仕事生活における米倉さんのインパクトと影響は重にして大なるものがありました。学問的にはほとんど影響受けてないけど。
 
国立市の本校のキャンパスで平日の午後に開かれたにもかかわらず、ホールには大勢の人が集まっていました。そこにいた多くの人は、僕と同じように、この人がいなければいまの自分はなかった、と思いながら,例によって自由闊達に進行していく米倉さんの話を聴いていたと思います。
 
これぞOne & Only。これからもこういう人はもう二度と現れないような気がします。また、現れてほしくもない。
 
 

米倉誠一郎、リスペクト!