誰も覚えてないと思いますが、先日ここに「仕事の一般原則」という主張を書きました。
アインシュタインに一般相対性理論と特殊相対性理論があるように、僕の仕事にも一般原則と特殊原則がございまして、本日はお日柄もよく、特殊の方をひとつ。
それは一言でいえば「無努力主義」。僕の仕事哲学・生活信条のコンセプトは無努力(effortlessness)にございます。モットーは「全力で脱力」。
孔子の論語の名フレーズ、みなさんもご存じだと思いますが、それの僕のバージョンがこれ。
一般原則の方の「誰も頼んでないんだよ」などは古今東西のあらゆる仕事と人に適用されるべき普遍の原則だと信じているわけですが、無努力主義の方は特殊原則なので人によって向き不向きがございまして、あくまでも僕が個人的に適用している原則なのですが、ご用とお急ぎでない方は聞いてってください。
まず確認したいこととして、あくまでも僕の場合ですが、これまでの仕事生活で、「努力しなきゃ……」と思ったことで人の役に立てる水準にまで上手くなったことはただの一つもございません。これだけは自信をもって言えます。
そもそも「努力しなきゃ……」と思うということは、必要とされているアウトプット水準と自分の現状のとの間に乖離があることを意味しております。このギャップを埋めるためにもう一段の「努力」が必要になる。
で、ここからがポイントなのですが、それが「努力」かどうかということは当事者の主観的認識の問題でありまして、僕に言わせれば「努力しなきゃ……」と思った時点でもう終わっているのですね、これが。もちろん何かがうまくなるためには努力投入、しかも長期継続的なそれが必要なわけですが、本人がそれを「努力」と任思惟している限りは投入の質量ともにたかが知れているし、何よりも持続性に欠ける。
質量ともに優れた努力を継続できるとすれば、その条件はただひとつ、「本人がそれを努力だとは思っていない」、これしかないというのが僕の結論でありまして、これを無努力主義と言うております。
つまり、客観的に見れば努力投入を継続している、しかし当の本人は主観的にはそれをまったく努力だとは思っていない。これが理想的な状態。無努力主義の本質は「努力の娯楽化」にあります。
「努力の娯楽化」、それはようするにその対象が理屈抜きにスキだということ。単純にスキ→やるのが楽しみ→朝起きたら2分でやり始めるのも苦にならない→誰も頼んでないのにガンガンやる→時間がたつのも忘れて集中してやる→(西城秀樹曰く)やめろと言われてもいまでは遅すぎた→いつまでもやる→繰り返しやる→持続性が極大化→そのうちに上手くなる→それでもスキなのでまだやる→多少の逆風が吹いても「でもやるんだよ!」→相当に上手くなる→わりと人の役に立つようになる→ますますスキになる→(13個前に戻って5回ループ)→本気(と書いてマジと読む)で上手くなる→いよいよ人の役に立ってその人の「仕事」となる。以上の因果論理の連鎖をあっさりと短縮していえば「スキこそモノの上手なれ」という古来からある格言になります。
僕の場合、この無努力主義の特殊原則を確立する前までは、完璧に中途半端な「努力」をして、結果的に大した成果を出せず、仕事どころかかえって世間の皆さんのご迷惑になることが多々ありました。そうすると、ますます「(イヤだけど)努力しなきゃ」となる。
挙句の果てに、「努力しなきゃ」→「でもイヤだな…」→「よーし、明日から努力することにしよう」→「(で、翌日)やっぱりイヤだな…。よーし明日こそ努力することにしよう」→「(で、翌日)毎日、明日からは…に無理があるんだな。ここはリアリスティックに来週から努力することにしよう。手帳に書いておきましょう」→(4個戻って12回ループ)→気づくと半年ぐらい楽勝で経過、という悪循環の空回りの明け暮れに嵌ることとなります。
無努力主義を自覚してからは仕事がずっと楽になったのはもちろん、特定少数のことについてではありますが、仕事の空回りもなくなりました。ビバ、無努力。
もちろん(客観的にみたときの)努力が不要と言っているわけではありません。天才は別ですよ、天才は(例:Derek Trucks)。天才は才能の赴くままにスキなことをスキなようにしていればよいだけの話で、無努力主義もへったくれもございません。そんなことをいちいち考えなくても、すべてを自然に、矛盾を矛盾のまま矛盾なく乗り越えられるのが天才。
ただ、僕は幸か不幸かフツーの人だったので(たぶん幸)、「努力しなきゃ、と思った時点で終わってる。次行ってみよう」の無努力主義を意識的に標榜することによって、何とか社会との折り合いがつく仕事をできるようになったという次第でございます。
どうせ1人の人間ができることなんてたかが知れているわけです(天才はこれを除く。例としてDerek Trucks)。幸いにして世の中いろいろな人がいるわけですから(僕のキライな言葉でいうと、いわゆるひとつの「ダイバーシティ」)、自分がキライで不得意で不得手なことは、自分でやるよりも誰かスキで得意な人にやってもらった方がよい。社会的分業。相互補完。社会構成の基本のキ。当然ですけど。当たり前ですけど。
「1%の才能と99%の努力」は真実でして、ようするに、微弱ではあっても1%の
才能がなければ、99%の努力を突っ込んでも何も起こりません。ゼロに何をかけてもゼロ。その「微弱な才能」とは何か。それが「理屈抜きにスキ」ということだというのが仕事の特殊原則の起点にして基点にして重点にして重心なのでありました。
以上、僕の仕事の特殊原則でありました。ご清聴感謝。
明日は朝からとりわけスキな種目の仕事が待っております。さ、ストレッチして寝よ。
アインシュタインに一般相対性理論と特殊相対性理論があるように、僕の仕事にも一般原則と特殊原則がございまして、本日はお日柄もよく、特殊の方をひとつ。
それは一言でいえば「無努力主義」。僕の仕事哲学・生活信条のコンセプトは無努力(effortlessness)にございます。モットーは「全力で脱力」。
孔子の論語の名フレーズ、みなさんもご存じだと思いますが、それの僕のバージョンがこれ。
子曰、
吾十有五而志于学、
三十而立、
四十而不惑、
五十而知脱力、
六十而耳順、
七十而従心所欲、不踰矩
ご覧のように、ポイントは50のところ。オリジナルバージョンでは「天命を知る」わけですが、僕の場合は「脱力を知る」。今年50歳にして、いよいよ「全力で脱力」、無努力主義にターボがかかってきました。
一般原則の方の「誰も頼んでないんだよ」などは古今東西のあらゆる仕事と人に適用されるべき普遍の原則だと信じているわけですが、無努力主義の方は特殊原則なので人によって向き不向きがございまして、あくまでも僕が個人的に適用している原則なのですが、ご用とお急ぎでない方は聞いてってください。
まず確認したいこととして、あくまでも僕の場合ですが、これまでの仕事生活で、「努力しなきゃ……」と思ったことで人の役に立てる水準にまで上手くなったことはただの一つもございません。これだけは自信をもって言えます。
そもそも「努力しなきゃ……」と思うということは、必要とされているアウトプット水準と自分の現状のとの間に乖離があることを意味しております。このギャップを埋めるためにもう一段の「努力」が必要になる。
で、ここからがポイントなのですが、それが「努力」かどうかということは当事者の主観的認識の問題でありまして、僕に言わせれば「努力しなきゃ……」と思った時点でもう終わっているのですね、これが。もちろん何かがうまくなるためには努力投入、しかも長期継続的なそれが必要なわけですが、本人がそれを「努力」と任思惟している限りは投入の質量ともにたかが知れているし、何よりも持続性に欠ける。
質量ともに優れた努力を継続できるとすれば、その条件はただひとつ、「本人がそれを努力だとは思っていない」、これしかないというのが僕の結論でありまして、これを無努力主義と言うております。
つまり、客観的に見れば努力投入を継続している、しかし当の本人は主観的にはそれをまったく努力だとは思っていない。これが理想的な状態。無努力主義の本質は「努力の娯楽化」にあります。
「努力の娯楽化」、それはようするにその対象が理屈抜きにスキだということ。単純にスキ→やるのが楽しみ→朝起きたら2分でやり始めるのも苦にならない→誰も頼んでないのにガンガンやる→時間がたつのも忘れて集中してやる→(西城秀樹曰く)やめろと言われてもいまでは遅すぎた→いつまでもやる→繰り返しやる→持続性が極大化→そのうちに上手くなる→それでもスキなのでまだやる→多少の逆風が吹いても「でもやるんだよ!」→相当に上手くなる→わりと人の役に立つようになる→ますますスキになる→(13個前に戻って5回ループ)→本気(と書いてマジと読む)で上手くなる→いよいよ人の役に立ってその人の「仕事」となる。以上の因果論理の連鎖をあっさりと短縮していえば「スキこそモノの上手なれ」という古来からある格言になります。
僕の場合、この無努力主義の特殊原則を確立する前までは、完璧に中途半端な「努力」をして、結果的に大した成果を出せず、仕事どころかかえって世間の皆さんのご迷惑になることが多々ありました。そうすると、ますます「(イヤだけど)努力しなきゃ」となる。
挙句の果てに、「努力しなきゃ」→「でもイヤだな…」→「よーし、明日から努力することにしよう」→「(で、翌日)やっぱりイヤだな…。よーし明日こそ努力することにしよう」→「(で、翌日)毎日、明日からは…に無理があるんだな。ここはリアリスティックに来週から努力することにしよう。手帳に書いておきましょう」→(4個戻って12回ループ)→気づくと半年ぐらい楽勝で経過、という悪循環の空回りの明け暮れに嵌ることとなります。
無努力主義を自覚してからは仕事がずっと楽になったのはもちろん、特定少数のことについてではありますが、仕事の空回りもなくなりました。ビバ、無努力。
もちろん(客観的にみたときの)努力が不要と言っているわけではありません。天才は別ですよ、天才は(例:Derek Trucks)。天才は才能の赴くままにスキなことをスキなようにしていればよいだけの話で、無努力主義もへったくれもございません。そんなことをいちいち考えなくても、すべてを自然に、矛盾を矛盾のまま矛盾なく乗り越えられるのが天才。
ただ、僕は幸か不幸かフツーの人だったので(たぶん幸)、「努力しなきゃ、と思った時点で終わってる。次行ってみよう」の無努力主義を意識的に標榜することによって、何とか社会との折り合いがつく仕事をできるようになったという次第でございます。
どうせ1人の人間ができることなんてたかが知れているわけです(天才はこれを除く。例としてDerek Trucks)。幸いにして世の中いろいろな人がいるわけですから(僕のキライな言葉でいうと、いわゆるひとつの「ダイバーシティ」)、自分がキライで不得意で不得手なことは、自分でやるよりも誰かスキで得意な人にやってもらった方がよい。社会的分業。相互補完。社会構成の基本のキ。当然ですけど。当たり前ですけど。
「1%の才能と99%の努力」は真実でして、ようするに、微弱ではあっても1%の
才能がなければ、99%の努力を突っ込んでも何も起こりません。ゼロに何をかけてもゼロ。その「微弱な才能」とは何か。それが「理屈抜きにスキ」ということだというのが仕事の特殊原則の起点にして基点にして重点にして重心なのでありました。
以上、僕の仕事の特殊原則でありました。ご清聴感謝。
明日は朝からとりわけスキな種目の仕事が待っております。さ、ストレッチして寝よ。