研究論文に不正があったかどうかという例の話、例によってマスメディアの勝手なアゲサゲの明け暮れでして、僕としては、この際よどみなくどうでもいい話でほっとけばイイ、3年もたてばみんな忘れてるんじゃないの、あほくさ…、に尽きるわけです。その点、山中先生はさすが。「STAP細胞の科学的な検証を待ちたい」。これ以上言いようはないわけで。

とりわけイヤなのは、ワイドショー的掘り下げ(ややキツ目の茶髪や巻き毛や服装関係や人間関係関係)よりも、むしろこのチンケな話を無理やり一般化した研究者からの言説のもろもろ。こういう批判が結構出てくるんですね、これが。

「多くの研究者が真摯に仕事をしているのに、こんな事件が起こるとアカデミズムに対する社会的な信頼を壊す」
「こんな事件が起こると、学位(博士号)の価値が毀損する」

僕に言わせれば、「こんなことに目くじら立てず、自分が正しいと思うやり方で粛々と自分の研究をやっていればイイんじゃないの、別に…」という話なのですが、主張としてはわりとこういう話が続くんですね。

「真面目に研究して、瑕疵がない論文で学位をとりながらも、ポストに恵まれず、苦しい状況に耐えて研究を続けている不遇の人が多いのに、こいつはチャラチャラしやがって何だ、責任者出てこい!」
「こういう問題が出てくるのは、若手研究者が功を焦るからで、なぜそうなるかというと、研究社会の競争主義が行き過ぎているからで、なぜ行き過ぎるかというと、研究に投入される資源(研究費や大学・研究機関のポスト)が少なすぎるからで、なぜそうなるかというと政府や自治体が研究や高等教育に対する資源配分が少なすぎるからで、したがって研究者はもっと手厚く遇されなければいけない、学位をとっても生活できない研究者が多すぎる、高学歴貧困の存在は文化的貧困だ、責任者出てこい!」

科学者でもなんでもない僕のところにも、こういう方向でのコメントを言わせよう言わせようとするメディア取材(電話)が来たので、「えー、僕はまったくそういう風には思いません。僕の考えを話すと長い話になりますが、それでもいいですか」というと、「あ、別に結構です(ガチャン)」と即終了。

学術的には邪道も邪道、王道が国道一号線ないし東海道新幹線だとしたら、贔屓目に見てもせいぜい「数寄屋橋通り」ないし「東急田園都市線」をひた走っている僕が言うのもちょっとアレですが、広ーい意味での「研究」(もう少し正確に言うと単なる「考えごと」)を仕事にしている者として、メディアが聞いてくれなかった意見を
この際申し上げたい。

「研究」という仕事には次のような特徴があります。
1.ふわふわしている。世の中の超間接業務。虚業中の虚業。
2.人間の本性の発露。「知る」「考える」「それを人に伝える」は人間が自然にやりたくなる活動。「動機は精神の高揚」(小柴昌俊先生の名言)。
3.以上の自然な帰結として、慢性的に供給が需要を大きく上回る。人間の本性だから研究を仕事にしたいという人は少なからず出てくるが、社会の超間接業務、虚業中の虚業であるだけに実需が薄い。だから仕事として折り合いがつきにくい。「研究」に対して継続的に対価が支払われるような仕事(たとえば大学や研究機関のポスト)の数は少ない。

僕が今の仕事を選んだのも、まさに上記1と2が理由であります。もともと考えごとがスキ。これは2の方で、こっちに軸足を置いて、学問的使命感をもって、研究者を志す人もいる。これがあくまでも研究人生の王道なのですが、僕にとってこれよりもずっと大きかったのは、むしろ1の「ふわふわしている」の方。とにかく自由そう、もうちょっというときちんとした実業(会社に就職するとか)に比べてイヤなことが少なそう、あっさりいうと楽(ラク)で楽しそう、これならイイんじゃないの、という安易極まりない理由が前面に出てきまくりやがった暁に大学院に進学したのでありました。

1<2の立派な志でこの世界に入ってきた研究者も少なからずいるわけですが、僕のような1>>2のいい加減な邪道派も案外多い、というか、僕の手前勝手な推測では、こっちの方、つまりキビしい世の中に出て揉まれるよりも、自由で楽(にみえる)な仕事ができればそれに越したことはないな…という根性なしの安直タイプがむしろ多いのではないか(俺だけで、実際はそんなことないのかな?)。

もちろん世の中はキビしい。ま、それほどキビしくはなくとも、さすがに「俺、考えごとスキだし、楽で楽しそうで自由だからイイじゃん…」が通用するほど甘くはないわけでありまして、そうは問屋が絶対一個も卸さない。ふわふわしたことを仕事にしようとした途端、すぐに壁に突き当たるという成り行き。

で、多分にもれず僕の場合も、苦節…とか七転八倒…というほどではありませんが、滑った転んだを10年ほど繰り返した挙句、三十代の半ばにもなると、仕事(とくにふわふわしたそれ)の原理原則というものにイヤでも気づかされるようになったわけです。僕が体得した仕事の一般原則は以下の通り。

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1.「仕事と趣味は違う」の原則
自分以外の誰か(価値の受け手=お客)のためにやるのが仕事。自分のためにやる自分を向いた活動はすべて「趣味」。趣味は家でやるべき。仕事と混同してはならない。

2.「成果は客が評価する」の原則
であるからして、仕事はアウトプットがすべて。ただし、アウトプットのうち、客が評価するものだけを「成果」という。例えば、商品をつくる。これはアウトプット。その商品が客に喜ばれ、必要とされ、受け入れられる。これが成果。仕事の達成をアウトプットの量に求める。このすり替えが自己欺瞞。こうなると仕事が趣味になってくる。仕事の自己評価の必要は一切なし。自分が納得する仕事をしていればよい。あとは客が評価をしてくれる。評価されなければそれでおしまい。

3.「客を選ぶのはこっち」の原則
それでも、客を選ぶのはこちらの自由。全員に受け入れられる必要なし。つーか、それはほぼ不可能。こういう人のためにやるというターゲットをはっきりさせて、その人たちに受け入れられればそれでよし。

4.「誰も頼んでないんだよ」の原則
ターゲットの選択からやり方から何から何まで仕事は自由意志。誰からも頼まれてない。誰にも強制されていない。すべて自分の意志でやっていること。仕事が成果につながらないとき、他者や環境や制度のせいにする。これ最悪。仕事の根幹が台無しになる。

5.「向き不向き」の原則
自由意志で納得のいく仕事をしていればよいのだが、どうしても自分で納得がいくアウトプットが出ない、もしくは、アウトプットが出ても客が評価する成果にならない、これを「向いてない」という。つまり才能がない。資質、能力がない。これはどうしようもない。だから、

6.「次行ってみよう」の原則
向いていないことが判然としたら、さっさと別のことをやるべき。つまり「ダメだこりゃ、次行ってみよう」。ただし、だからといって一からやり直したり大転換する必要なし。本当に向いてないことには、人間そもそも手をつけないもの。次に行くべきところは意外と近くにある。

7.「自分に残るのは過程」の原則
仕事のやり甲斐は、自分の納得を追求する過程にある。客にとっては結果(成果)がすべて。仕事の成果を自分で評価してはならない。しかし、自分の中で積み重なるのは過程がすべて。仕事の過程で客におもねってはならない。おもねると、短期的に「成果」が出たとしても続かない。

8.「仕事の量と質」の原則
客側(自分ではなく)で記録に残る成果の集積を「仕事の量」という。これに対して、客の記憶に残る成果が「仕事の質」。
一方で、自分の記憶に残る成果、これを「自己満足」という。自己満足はわりと大切。ただし、客の評価抜きに自分で手前勝手に足し合わせた「量」に目が向いてしまうと、「自己陶酔」。何の意味もない。

9.「誘因と動因の区別」の原則
仕事の量を左右するもの、これを「誘因」(インセンティブ)という。ただし、誘因では仕事の質を高められない。仕事の質を左右するのは「動因」(ドライバー)。誘因がなくても自分の中から湧き上がってくるもの、それが動因。

10.「自己正当化禁止」の原則
自己満足は仕事の動因となり得るが、あくまでも舞台裏の話で、表に出してはならない。自己満足について客に同意や共感を求めるのは論外。それは「自己正当化」。みっともないことこの上なし。
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直接部門でしっかりと実需に向いた実業をしている大多数の人々は別として、研究というふわふわ仕事で世の中と折り合いをつけようとする以上、この十大原則から逸脱すると、ロクなことにならないというのが僕の経験上の結論で御座います。

(1)フワフワしている、(2)人間の本性、(3)需要<<供給、以上の3特徴を満たす仕事は、研究以外にもいろいろとあります。例えば、芸術や芸事、スポーツなどもそうでしょう。こうした分野では、自分の活動を仕事として世の中と折り合いをつけるのがそう簡単でないのがデフォルトで当たり前。

先だって、コンテンツ(ストーリー・ゲームなど)を創って売っているボルテージという会社の創業者、津谷祐司さんと話をする機会がありました。これがヒジョーに面白かった。

津谷さんは映画がスキで映画監督になりたいということで、それまで務めていた広告会社を休職してUCLAの映画学部の大学院の監督コースに留学しました。ここはその世界の名門で、入学を許可されるだけでも大変なのですが、それでもこの大学院を出てプロの監督として成功する人は「100人に1人もいない」というキビしい世界だそうです。

で、津谷さんも例外でなく、卒業しても映画監督を仕事にできなかった。その代わりに
映画的なセンスと視点で創った「ストーリー・ゲーム」が世の中に受け入れられ、氏の仕事となり、その延長にボルテージという会社ができたという成り行きです。

津谷さんと話をしていて、氏の思考や行動にも「仕事と趣味は違う」「成果は客が評価する」「誰も頼んでないんだよ」「次行ってみよう」といった一般原則が垣間見え、勝手に共感したのでありました。

で、話を戻しますと、僕が言いたいのはこういうことです。映画や絵画や音楽やスポーツの世界で、それがなかなか仕事として折り合い人は多い。それでも、「世の中が悪い」「政府が悪い」などという人はあまりいない。ところが、なぜか「研究」となると、上記の「責任者出てこい!」という連中が続々と出てくる。ここが理解に苦しむところです。

「不遇」というけれど、それはジッサイのところ「不才」なわけで、「責任者出てこい」の対象はジッサイのところ自分自身に他なりません。誰も頼んでないんですよ、ジッサイのところ。

だいたい僕にしても、当初の目論見では、人前で歌ったり踊ったり演奏したりということを仕事にできればそれに越したことはなかったわけで、それが「仕事」にならず(
音楽は趣味として細々と展開)、研究の真似事を始めてからもやることなすこと「向いてない」「ダメだこりゃ」「次行ってみよう」の繰り返しの明け暮れで現在に至るわけでありまして、ふわふわしたことをやる以上、そんなことは当たり前なわけです。当然ですけど。もし世の中の制度や政府や環境がふわふわを無理やり仕事として成り立たせてくれるならば、今頃僕はこんなことやってないで、赤坂のニューオータニのボールルームや横浜のクリフサイドあたりで毎晩ディナーショーをやってますよ(銀座のクラブでもイイけど)。

「あなたの夢をあきらめないで」とか言うのもイイけれど、ごくごく一部の天才を別にすれば、世の中の現実、仕事の真実を直視するのがまずは先決。

ということで、僕が考える仕事の一般原則を
長文に渡りお話しましたが、この一般原則の上に、「仕事の特殊原則」(一般性はないが僕にとっては重要極まりない原則)というものがありまして、それは一言でいうと「無努力(effortless)主義」という言葉に集約されるのですが、これについてはまた今度。チャオ!