ジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドのライブ@ブルーノートに行ってまいりました。


ブルーノート東京のすぐ近くにOasisという美容室がありまして、ここには友人のヘア・スタイリスト、マスチンおよび日本におけるレースクイーンの草分け(?)で現在はモデル(ママ役が多いのか?)のホナミちゃんが所属しておりますゆえ、ライブの前にちょっと顔を出して旧交を温めました。久しく会っていなかったため、「ケンちゃん、やせたね!」の声をかけていただき、イイね!


で、ジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドなのですが、まずはお決まりのSoul IntroからChickenへと流れるオープニングであります。


Big Band


Gerald Veasley(b),
David Pastorius(b),
Randy Brecker(tp),
Peter Graves(conductor),
Billy Ross(sax),
Gary Keller(sax),
Ken Mattis(sax),
Mike Brignola(sax),
Jason Carder(tp),
Ken Faulk(tp),
Jim Hacker(tp),
Dana Teboe(tb),
John Kricker(tb),
Jim Gasior(key),
Randall Dollahon(g),
Jeff Carswell(b),
Mark Griffith(ds)


こういうラインアップのそれはそれは豪華な演奏なので、Soul Introが始まった瞬間にかなり鳥肌が立ったのですが、Chickenのベースはジェフ・カーズウェルという人で、この人はたぶんすごい技術なのでしょうが、ヒジョーに実直なベースを弾く人でありました。The Chickenはビバップ形式のベースの自由度が高い曲なので、生前のジャコはどんどんジャコ・オリジナルのオカズを入れまくって弾いていたものですが、ジェフ・カーズウェルは極端にオーソドックスな演奏で、それはそれで悪くないのですが、ああ、本物のジャコじゃないんだよね、と、ちょっと悲しくなりました。


ところが、ジャコの甥というデイヴィッド・パストリアスという若者がよかったんですよ、ええ!音はジャコよりも現代的なのですが、速いパッセージを弾くときの姿がそっくり。技術がすごい上に、ちょっとしたフレーズが超センスよくて、カッコイイ!最高でした。もっとこの人のベースを聴き込んでみたいと思いました。

David


リードのトランペットはランディ・ブレッカー。おじいさんになっていたのでびっくりしたなあ、もう。

Randy


で、圧巻だったのは、この人、ベースの怪人としか言いようがないジェラルド・ヴィーズリー。生で観るのは初めてだったのですが、ま、一言でいって、とんでもない超絶技巧でした。今までで観た中で、ダントツの変態テクニック!音もきれいで、フレーズもかっこよくて、ソロから入った「コンティニューム」はマジで美しい演奏でしたよ、ええ。

ジェラルド


それにしても改めて痛感したのは、ジャコがいかに革命的だったかということ。ベースの演奏の方法や音色、パースペクティヴはもちろんですが、こうして聞いてみると、曲がとにかくすばらしいんですね。独特のユーモアがある、美しい、構築的といったことに加えて、僕はジャコの曲を聴くと、なにより郷愁というか、子供のころの自由で不安な気分というか、そういうものにつつまれるわけです。これはジャコが35歳で死ぬまで、というか殺されるまで、というか自殺するまで、天才であると同時に子供っぽい人だったからだという気がします。自由とか躍動とか、そういう言葉がこれほどふさわしい音楽はないねイイね!


ジャコ   ジャコ

ジャコ・パストリアス        若いころ


あまりジャコやジャズに関心がない人でも、ぜひとも一度聞いてみてください。本当にイイですよ。

ジャコ・パストリアスの肖像
参考:
ジャコ・パストリアスこと故ジョン・フランシス・パストリアスⅢは、1951年12月1日、ペンシルヴァニア州ノリスタウン生まれ。'87年9月21日、第二の故郷フロリダのフォート・ローダーデイルで死去。享年35歳。'76年に『ジャコ・パストリアスの肖像』(ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル)で衝撃的デビューを果たすと、トップ・グループ“ウェザー・リポート”に参加。天才的なテクニックとパースペクティヴによって、エレクトリック・ベース界に革命を引き起こした。セカンド・アルバム『ワード・オブ・マウス』(ワーナーミュージック・ジャパン)を'81年にリリースするのに前後して、大編成のジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドを結成。エレクトリック・ベースばかりでなく、ラージ・アンサンブルの分野にも深い爪痕を残した。晩年は自らの天才をもてあまし、徘徊生活に。直接の死因は、クラブのボディ・ガードによる殴打とされている。'78年に“ウェザー・リポート”の一員として初来日。'82年には、21人編成のビッグ・バンドを率いて日本初公演。その模様は『TWINS 1&2~ライヴ・イン・ジャパン'82』(ワーナーミュージック・ジャパン)に収録。