昔話でもしようと思う。
自伝的なw
赤裸々に書いていく。長くなるので暇な人は読んでね。
何回かに分けて書いていくよ。
CDデビューの話。
一番最初に出したミニアルバムは2004年に発売したのでかれこれもう8年前。
21,22歳の時。
当初マコが入ったばかりでライブ活動も沢山していてたまたま舞い込んだデビューの話。
水戸のソニックのブッキングの方が推薦してくれて北海道の有名なハードコアレーベルのメロディック部門でCDを出すって話になったんだけど、結局おじゃんになった。
その後すぐにCDを出すことになったLASTRUMからのレーベルから水戸ソニックに連絡があって、
「若手でいいやついる?」
見たいな感じで俺らを推薦してくれた。
それで前のマネージャーに東京のライブを見に来てもらって、話はとんとん拍子に進んだ。
その頃のメンバー
タカトシとかソウヘイとかもCDを出すことって凄い夢だったんだけど、
自慢じゃないが俺ら東京でライブをしだしてすぐに数社のレーベルから声をかけられていてなんだかんだ現実辿り着かなかった経緯があったから、
「今回もどうせ無理」
みたいな事をメンバー内でも囁いていたんだけど今回ばかりはきちんと形になった。
レーベルの金でスタジオに入り、ライブも何回かさせてもらって。
そのあと発売日を決めてレコーディング。って流れ。
ミーティングも沢山した。
あの頃は本当に週一くらいで東京に足を運んでいた。
発売日から3ヶ月前にレコーディングに入った。
青山の馬鹿でかいスタジオ。俺らは今までD.I..Y精神wでやっていたので毎回デモを作るのも宅録だったから本格的なレコーディングスタジオは初。
興奮した。
やけに金の掛かっているスタジオでドラム撮りをした青山のスタジオはあの財津和夫の「サボテンの花」をレコーディングした所と一緒だった。w
俺は心の中でテイストが違いすぎて大丈夫か?って思いはあったけど良い環境でレコーディングが出来るのはとても良いことだと思った。
リズムが撮りおわって予算の都合か(他のスタジオそれも青山だけど)移動して上物と歌のレック。1週間で5曲。
本当に楽しかった。
中に収録されている「SO LONG」って歌のメロディーはそのスタジオで作り上げた。
タカトシのメロディーセンスは最高で初?の共同作品。思い出深い曲だ。詩の内容はその時の俺の心境がリアルに反映されていて詳しくは言わないが、とても思い出深い曲となった。今でもお気に入りの一曲だ。
発売して今の流通事情とは少し異なって、まだCDの売れ行きが好調な時代だった事もあってイニシャル(初回の発注)が約1000枚くらいついた。現状のインディーズ界で新人で1000枚行けば相当凄いことらしいが俺らの時は1万枚いくと大快挙!5000枚でいい感じくらいの時代なので、結果は良くは無かったが、加も無く付加も無く。って感じだった。
結果、START OVERは1500枚しか売れなかった。
ツアーも40本弱、上は青森、下は九州までいったけど俺らの客なんて0に等しかった。
どこだった忘れたけどギャラで1万くらたハコがあった。とても感謝した記憶がある。
CD出すまで何処のライブハウスに行っても「ノルマ」ってモンと戦っていたからCD出してライブをするのに金が掛からないって事だけで俺は楽しかった。
今考えると馬鹿馬鹿しいのかもしれないが、何よりもあの時はがむしゃらだった。
具体的な金額は言わないがCDのセールスでのアーティスト印税、著作権税で発売後半年で一回きりだけど社会人の一年目の夏のボーナス位のお金が入った。ほんと微々たるもんだ。w速攻使った。
その時って印税の名義が全部俺だったからそれだけ入ったけど、後に出す2枚のアルバムは詩も曲もバンド名義にしたから簡単に割る4になった。w
詩も曲も俺が書いたんだけど、金でがたがた不平不満が出るのは嫌だったからね。
そんなわけでツアーも終わって次のアルバムを早く作りたくて曲作りに専念するわけ。
ライブをスローにした気分でいたけど今考えれば相当やってた。スローにしたといっても月4本はしてた。
これから数年はこのルーティーンの繰り返しを続けた。
何よりもCDを作るって本当に楽しい。ツアーも最高。お客さんがいてもいなくても本当に楽しかった。
金は本当になかったよ。w
親元を離れてアパート暮らしだったからギリギリだった。だから昼も夜も働いた。
それでもその時は「思い」が強かったからそんな状況でも楽しかった。
自伝的なw
赤裸々に書いていく。長くなるので暇な人は読んでね。
何回かに分けて書いていくよ。
CDデビューの話。
一番最初に出したミニアルバムは2004年に発売したのでかれこれもう8年前。
21,22歳の時。
当初マコが入ったばかりでライブ活動も沢山していてたまたま舞い込んだデビューの話。
水戸のソニックのブッキングの方が推薦してくれて北海道の有名なハードコアレーベルのメロディック部門でCDを出すって話になったんだけど、結局おじゃんになった。
その後すぐにCDを出すことになったLASTRUMからのレーベルから水戸ソニックに連絡があって、
「若手でいいやついる?」
見たいな感じで俺らを推薦してくれた。
それで前のマネージャーに東京のライブを見に来てもらって、話はとんとん拍子に進んだ。
その頃のメンバー
タカトシとかソウヘイとかもCDを出すことって凄い夢だったんだけど、
自慢じゃないが俺ら東京でライブをしだしてすぐに数社のレーベルから声をかけられていてなんだかんだ現実辿り着かなかった経緯があったから、
「今回もどうせ無理」
みたいな事をメンバー内でも囁いていたんだけど今回ばかりはきちんと形になった。
レーベルの金でスタジオに入り、ライブも何回かさせてもらって。
そのあと発売日を決めてレコーディング。って流れ。
ミーティングも沢山した。
あの頃は本当に週一くらいで東京に足を運んでいた。
発売日から3ヶ月前にレコーディングに入った。
青山の馬鹿でかいスタジオ。俺らは今までD.I..Y精神wでやっていたので毎回デモを作るのも宅録だったから本格的なレコーディングスタジオは初。
興奮した。
やけに金の掛かっているスタジオでドラム撮りをした青山のスタジオはあの財津和夫の「サボテンの花」をレコーディングした所と一緒だった。w
俺は心の中でテイストが違いすぎて大丈夫か?って思いはあったけど良い環境でレコーディングが出来るのはとても良いことだと思った。
リズムが撮りおわって予算の都合か(他のスタジオそれも青山だけど)移動して上物と歌のレック。1週間で5曲。
本当に楽しかった。
中に収録されている「SO LONG」って歌のメロディーはそのスタジオで作り上げた。
タカトシのメロディーセンスは最高で初?の共同作品。思い出深い曲だ。詩の内容はその時の俺の心境がリアルに反映されていて詳しくは言わないが、とても思い出深い曲となった。今でもお気に入りの一曲だ。
発売して今の流通事情とは少し異なって、まだCDの売れ行きが好調な時代だった事もあってイニシャル(初回の発注)が約1000枚くらいついた。現状のインディーズ界で新人で1000枚行けば相当凄いことらしいが俺らの時は1万枚いくと大快挙!5000枚でいい感じくらいの時代なので、結果は良くは無かったが、加も無く付加も無く。って感じだった。
結果、START OVERは1500枚しか売れなかった。
ツアーも40本弱、上は青森、下は九州までいったけど俺らの客なんて0に等しかった。
どこだった忘れたけどギャラで1万くらたハコがあった。とても感謝した記憶がある。
CD出すまで何処のライブハウスに行っても「ノルマ」ってモンと戦っていたからCD出してライブをするのに金が掛からないって事だけで俺は楽しかった。
今考えると馬鹿馬鹿しいのかもしれないが、何よりもあの時はがむしゃらだった。
具体的な金額は言わないがCDのセールスでのアーティスト印税、著作権税で発売後半年で一回きりだけど社会人の一年目の夏のボーナス位のお金が入った。ほんと微々たるもんだ。w速攻使った。
その時って印税の名義が全部俺だったからそれだけ入ったけど、後に出す2枚のアルバムは詩も曲もバンド名義にしたから簡単に割る4になった。w
詩も曲も俺が書いたんだけど、金でがたがた不平不満が出るのは嫌だったからね。
そんなわけでツアーも終わって次のアルバムを早く作りたくて曲作りに専念するわけ。
ライブをスローにした気分でいたけど今考えれば相当やってた。スローにしたといっても月4本はしてた。
これから数年はこのルーティーンの繰り返しを続けた。
何よりもCDを作るって本当に楽しい。ツアーも最高。お客さんがいてもいなくても本当に楽しかった。
金は本当になかったよ。w
親元を離れてアパート暮らしだったからギリギリだった。だから昼も夜も働いた。
それでもその時は「思い」が強かったからそんな状況でも楽しかった。