けっこう豊潤・結局ビオ・・シャソルネイ | ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

テロワールにより造り手により 変幻の妙を見せるピノ・ノワールの神秘を探る

true
ドメーヌ・シャソルネイ ブルゴーニュ・オート・コート・ド・ボーヌ 2004
購入日    2006年4月
開栓日    2009年9月2日
購入先    下里
インポーター コスモ・ジュン
購入価格   3900円

この1週間も忙しかった。
まず今週末にある学会発表の準備に取りかかっている。
同日に2演題発表予定だからけっこう大変だ。
うち一つは一般演題だから特に笑いを取る予定はないが、
もう1つはイブニング・セミナーで講演料まで頂戴する予定だから、プレッシャーがかかっている。

今度の連休もどこにも行く予定はなかったが、2週間を切る今ごろになって、
どっかに出かけようかな、という気になってきた。
当然今からなら飛行機も宿も取れないから、どうなるか分からない。

わたしは何でも直前にならないと決められない性格のようだ。
自分の葬式を何年も前から葬儀場に予約しておくことすらできないくらいだから、
旅行の予約などなおさらだ。
こんなことでは有名旅館に泊まることなど夢また夢である。

今夜プリンタを使おうとしたら紙送りが壊れていて使えない。
エプソンからキャノンに買い換えて気に入って使っていたのに、これでは困る。
まだ2年半くらいしか使っていないのに、やっぱり今のプリンタはヤワな消耗品なのか。
性能と使いやすさでキャノンはエプソンより圧倒的に上を行く、と思っていたのに
これでは評価を改めないといけない。

新型インフルエンザの感染拡大にあたり、医師が3人寄ればその話題になるようになった。
5月に関西での感染報道が始まり、関西人がバイ菌扱いされていた時期に、
予防すべきだと騒いでいた方々は、今の方がずっと感染が蔓延しているのを
当然ご存知なのでしょうなあ。

少なくとも関西では、今の方がマスクをしている人が少ない。
一時期マスクが入手できるようになったので、仕事場用に千数百枚確保してあるが、
うちは内科ではなく、基本的にインフルエンザを診る科ではないから、
今のところまだ使用していない。
いつからマスクをすべきか分からないが、このままなあなあと行くのだろうか。

で、ついにワイン整理用のバスケットを購入しまくった結果、一応ワイン庫の整理が一段落した。
結局購入したバスケットは100個あまり。
1個に8本(ボルドーなら10本)ずつ入り、入りきらないものも20本ほどあるので
合計800本以上。
これ以外にセラーに詰まっているものが140本以上ある・・合計する気にもならず。

これからは飲み頃を迎えたものから惜しげもなく開栓していくしかない。
ブログがバブリーになってしまうかも知れないが、ようやくブルゴーニュ・ワインの限界、
というものがかすかに見えてきた気がする。
ピノ・ノワールに関しては、もうこれ以上ひっくり返るほど驚愕するようなワインに
出会うことは無いような気がしてきたが、これは思い上がりなのだろうか。

すでにボルドーに関しては、何年も前から期待以上のものは出てこない、と思うに至り、
現時点で実際そうなのだが、もしそれが本当なのだとしたら、こんなつまらないことはない。

音楽に関してもそうで、自分の知らない天才作曲家はもう出てこないのでは、
と思うようになってから長い時間が経過する。
自分が経験不足なら嬉しいことだが、自分の五感が鈍ってきているとしたらとても悲しい。

本職の医者稼業に関しては、今も臨床力を年々上げているという自負はあるが、
これとていつまでそう思い続けることができることやら。


酔いにまかせて、つらつらとくだらないことを書いてしまった。
それというのも、今回のビオワインに関しても同じような感慨を抱くからである。

おそらくこのワインは、ビオとしては極上に近いものであり、風格も備えているし
複雑な果実香も漂わせている。
しかし自分からすればもう周知の範囲であり、新鮮な驚きをもって語る対象では
なくなってしまっている。

いつも感じることだが、この種のワインのテロワールの分かりにくさはどうなのだろう。
旧来の名手のワインからは、はっきりとシャンボール・ミュジニーだとかヴォーヌ・ロマネ
だとかを感じさせるものは多いのだが、
このワインからは、どんな位置にある畑なのか見えてこない。

ジョスカン・デ・プレのミサを聴けば、それが録音された欧州の石造りの教会の空気が
自分の周りを包み込むし、チベット仏教の音楽を鳴らせば、土作りの寺院に満ちた
乾いた高地の空気をはっきりと感じる。
録音技師の技術が芸術家のレベルまで達していると言うべき、お見事な仕事ぶりである。

しかしこのワインからは、醸造家の偉さは分かっても、その土地の個性を感じることはない。
ひょっとすると、この種のワインは何か欠くべからざる要素を犠牲にして
成り立っているのではないか、と思わなくもない。
テロワールの表現を失う代償として、何かとてつもなく貴重な要素を手に入れていて、
それがわたしには理解できないだけかも知れない。

それが熱狂的な信者にだけしか見えないものだったら、一生かけてもわたしには
見えてこない可能性もある。
まあ、それだったらそれでもいいや、とちょっと投げやりになってきた今日この頃ではある。