愛犬の散歩中や駅に向かう際に、よく出会うご夫婦がいた。

ご主人は既にリタイアして随分と経っている老齢のご夫婦。奥さんの足が悪く、リハビリを兼ねてお二人でゆっくり歩く様子を何度も見たことがある。

奥さんの靴はすり減りがひどく、骨格が変形しているためうまく歩けない様子だった。

一歩一歩ゆっくり歩く奥さんの手をとって、転ばないようにご主人は奥さんを見守っていた。いつも優しい眼差しで。

知り合いでもなく、ご近所で見かけるだけのご夫婦。挨拶をしたこともない。

近くの公園にあるベンチにお二人で座り、誰にも聞き取れないほどの声で囁くように会話している姿を何度も見たことがあった。


この春。

桜が咲く頃、公園に咲いた桜をベンチに座って見ているご主人の姿があった。奥さんの姿はない。

たまには息抜きでお一人で過ごすこともあるのだなと、その時は思った。

しかし、その日を境にお二人で歩く姿を見かけなくなった。


その後何度となく、ご主人を見かけた。あれだけ二人の時はゆっくりと歩いていた方が、スタスタというかきびきびと歩いている。ご主人はこんなにもちゃんと普通に歩ける方だったのだと、初めて知った。

今ではいつものように、公園のベンチにお一人で座っている。新緑の桜を眺めていたり、公園で遊ぶ子どもたちの声を聞いているのか気持ち良い春を満喫しているようにも見えたが、どこか寂しそうだった。

不意にベンチから立ち上がってご主人は、黙ったまま公園を後にした。あれだけご夫婦で静かに語り合いながらゆっくりと歩いて、仲睦まじい様子だったのに。


私も重症筋無力症という名の難病で、力が入らないだの動けないだのとぼやいているが、家人と立場が逆転することだって今後あり得るだろう。

その時、大きな器で家人と一緒に並んで歩いて行けるだろうか。気遣いができるだろうか。

そんなことをふと考えた。

思っているよりもそれは、大変なことなのかもしれない。

それでも隣にポッカリと穴が開くような虚しさを、いなくなる時に初めて感じるより、覚悟しながら常日頃お互いを思いやって、理解し続けた方が悔いがない。

そんなことを思ったんだ。

病気の者が先に死ぬとも限らないのが、それぞれの持たされた人生だから。

どうか心の安らぎを、全ての人が受け取れる世の中であるように。