FXに限らず、相場で利大損小ではなく、利小損大になってしまう原因は、「我」にあります。


行動経済学の話の中で必ず取り上げられるものに、プロスペクト理論というものがあります。
これは、本能のままに投資をすると、損をする事に対する恐怖が大きいために、かえって損を選んでしまうということを指摘したものです。
(人間は損と得を同価値と感じていないというのが、プロスペクト理論の主旨です。人間は、得よりも損に弱いそうです。)


相場は、ポジションを持ったままで決済を行わなければ、利益も損失も確定されません。
決済をしなければ、利益は減ったり増えたりします。
決済をしなければ、損失も減ったり増えたりします。


利益が出ている時に、我が介入すると…。
せっかく利益が出ているのに、放っておいたら利が減るかもしれない。(この儲けを減らしたくない!)
このまま持っていて、もし相場が反転したら、利益が飛んで損失になってしまうかもしれない。(この儲けを失いたくない!)
となって、利益を伸ばすことが出来ません。(自分でブレーキを掛けてしまうわけです)


今度は逆に、損失が出ている時に、我が介入すると…。
まだ損失は少ない、もしかしたら戻って来るかもしれないから、そのままにしておこう。(損を確定したくない!)
損失が大きくなってしまった、どうせなら、ちょっとでも戻って来た時に処理しよう。(損を少しでも小さくしよう!)
となって、いつまで経っても損失を確定出来ません。(ズルズルと先延ばししてしまうわけです)


これが、利が小さく、損は大きくなってしまう理由です。
(えぇ、えぇ。何度も何度も味わいましたとも…^^;)





じゃあ、どうすれば、利は大きく損は小さくなるのでしょう?
昔から言われている事は、計画を立ててそれを守るという、それただ一点です。
そして、それと共に。
自分で作り、自分で決めたトレードルールを、守り続ける事です。


それを続けられないのも、我が出てしまうからなので。
トレードは、いかに我を出さないか、が大切なのですね。


それには、日々の努力と工夫が必要なのですが…。
それとはまた別の方向性も、あります。




***ここから内容が変わります***


それは、今年の2月の初旬から始まった様に記憶しています。
不意に、「私」がいない、という事に気づきました。
感覚として気づいたのではなく、考えて考えて考えているうちに、気づきました。


「行為者はいない」であるとか「誰もいない」という意味が、それで分かりました。
すべては、ただ起きて滅しているだけで、それを起こしたりしている「誰か」など、存在していなかったのです。
(なかなか書けませんでしたけど。2月、3月の大阪は、そうしたことを試す旅でもありました。)


自我もなければ、真我もない。
そもそも我というものが、概念にすぎないというこれは…。
(自分の内で、整理されていなかったので)とても口に出せる事ではありませんでした。



そして、3月の大阪から帰って来た翌日頃に、待ちに待っていた書籍が届きました。
それは、ナチュラルスピリット社から出版された『ホームには誰もいない』という本です。
(うん、うん。うん、うん。頷くことばかりの内容です。)


そしてさらに、4月に入ってからは。
3日に、同じ出版社から出された『すでに愛の中にある(個人のすべてを失ったとき、すべてが現れる)』が届きました。
(もうこれが、トドメと言ってもいいと思います。)


日本の方が書いた本なので、翻訳された不自然さはありません。
流れる様な、思考に引っ掛からない風の様な。
そんな自然さで、書かれています。


これで、もう行くべき所が無いくらい、理解は深まりました。
しかし。
理解は頭がするものなので、何か事が起これば、そんな理解は吹っ飛びます。


理解を吹っ飛ばしたモノ。
私にとっては。
それが相場でした。


リアルトレード、デモトレード。
どちらをしても、我が出て来ます。


利は、早目に確定したくなるし。
損は、確定したくありません。


利は少ない内に確定してしまうのに、損は損切りが遅れがちになります。
これではまるで、利小損大の良いお手本です。(^^;)



・何が損を長引かせるのか?
これは簡単に見つかりました。
期待、です。
損が小さくならないかと、未来に期待していました。


・何が利を早目に確定させるのか?
こちらは簡単ではありませんでした。
何しろ、見ようと思っても冷静に見ていられません。


ソワソワとか、焦りとか、そういうものとも違うように感じます。
逃げたい、逃げなければ。そんな感じが近いような気がします。
(言葉にしてしまえば、失うのが怖い、という一言で済んでしまいますが…)


これは、もう、私にはどうにもできなかったので…。
思い出すことにしました。
「我(私)」は、いない。という事を。


これは今の所、効果を発揮してくれています。
全てにおいて、誰かがいなくなります。
(我は無い。それがたとえ、思考を使ってそう思い、考えていたとしても。)


意識、していたとしても。
意識を、している誰かはいません。
意識が、ただ起こっているだけです。


意識、は。私ではありません。
私…というか。それ、は。
ただの気づきのスペース(空間)です。


般若心経の示すものが、段々わかってきた気がします。



すると。
利が乗っていても、放っておけます。
(ちゃんと、損切りラインで発動する注文は入れてありますよ。 ^^;)


損切りは…。
今の所、手違いで損切りになっちゃったケースはありますが。(笑)
損切りをする機会は、まだ訪れていません。
でも、たぶん。躊躇なく、するでしょう。


我を外す。
とっても、奥が深いです。






※名物「自分のブログへ誘導するだけが目的のコメント」と判断した場合、私の独断でバッサリ削除します。
心頭滅却すれば、削除もまた楽し?(笑)