お話の途中ですが。
あんまり限定記事ばかり並ぶのも何なので。(^^;)


私の個の意識のつぶやきです。
いや、初めはつぶやきだったんですけど…。
何か、長いな。(^^;)


タイトルは、すでに持っていた、ですが。
実際は、すでにそれだった。です。


あくまでも、個の意識から見たタイトルになっています。





私は、体の中にいると感じていました。


私は、体でした。


私は、この体で生きて行かなければなりませんでした。


成長するにつれて、周囲からの要求が厳しくなっていきます。


次第に私は、自分で自分を評価して、自分で自分を裁くようになりました。


私には、欠けている部分を埋めるために、何かが必要になりました。


私は私以外から、欠けている何かを埋めるために、様々なものを必要としました。


私は正しくなければなりませんでした。


私は私を保つために、安心で安全な場所が必要でした。


私は他人からの目が常に気になりました。


それが、他人から本当はどう見えているかは関係ありません。


その、他人の目というものも、私の思い込みの反映だったからです。


私は外の世界をありのままに見ることはありませんでした。


私の外の世界はすべて、私の意味付け、決め付けの反映です。


そういう意味では、私は私が見たい(意味付けされた)世界を見ています。





しかし。


私は、自我ではありません。


自我なんていう存在は、存在していませんでした。


私は、個という錯覚を見ていただけでした。


個が錯覚であることは、私の中の思い違いや思い込みを一つ一つ見て行けば分かることでした。


初めから、何も隠されていません。


いつでも常に、目の前にあります。


それなのに、どうして私にそれが分からないのでしょう?


どうして目の前にあるのに、見えないのでしょう?


それは。


私が私の中に、私が見たくないものをすべて隠したからです。


私は、私の混乱をそこへ押し込めました。


私は、私の衝撃をそこへ押し込めました。


私は、私が感じたくないものを。


私は、私が失いたくないものを。


私は私の中に押し込めて、それを見ないようにしたのです。






しかし。


ある時、気づきが起きます。


私はすでに、すべてを持っていたことに。


私に欠けているものなんてなかったことに。


そしてそもそも、私の外は内で。


そしてそもそも、内しかなかったことに。





私は自我ではありません。


自我なんていません。


個としての意識があるだけです。


でも、個としての意識なんていうものも、ありません。


個としての意識は、私が起動させています。


私という個ではない、なにかが、焦点を合わせて興します。


私が焦点を合わせなければ、それは興りません。


しかし、それは常に現れています。


存在としてではなく、起こることが起こることとして現れています。


そこに誰かは居ません。


それを操っている誰かなんて居ません。


しかし、そこに誰かを興すこともできます。




どうも、おしゃべりが過ぎたようです。





どこに意識の焦点を合わせるかで、世界はまったく違った側面を見せます。
今回は、すべて持っていたという、真実の側面に焦点を合わせましたので、存在する喜びを感じづらかったと思います。(^^;)
本当は、すでにすべてを持っていたということに気づくと、安堵感があるよぉ~っていうことを言いたかったはずなんだけど。
どこいっちゃったかな?それ。(笑)






※名物「自分のブログへ誘導するだけが目的のコメント」と判断した場合、私の独断でバッサリ削除します。
気付いたら、どっかいっちゃってたとしたら、それは。
…起こることが起こったのでしょう。(笑)