般若心経を、私はこう読みました。
・まかはんにゃはらみたしんぎょう
真実の理知により(あるとないが)見抜かれた気づきの在り方
・かんじざいぼさぎょうじんはんにゃはらみたじ
滞りが解れ自由自在を取り戻した意識は、あるとないに深く入り真実を見抜く
・しょうけんごおんかいくう
その視点から観ると、観られるもの(五蘊:色法と心法)と観るものとは分かれていない
・どいっさいくやく
それにより、一切の苦しみは、ないをあるとするストーリーだと知る
・しゃりししきふいくうくうふいしき
気づいている内容と気づきは別のものではなく、気づきは気づいている内容と分かれていない
・しきそくぜくうくうそくぜしき
気づいている内容は気づいていることと同じもので、気づいていることと気づいている内容は同じひとつ
・じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ
すべては、気づきの中で気づかれている
・しゃりしぜしょほうくうそう
舎利子(般若の智慧を聞く人)、すべてのすべてである気づきとはこうである
・ふしょうふめつ
気づきに始まりも終わりもない、それは、それしか存在したことはないからだ
・ふくふじょう
気づきは気づいている内容の影響を受けることはない、すべては、気づきの中の気づきだからだ
・ふぞうふげん
気づきは変らない、常にここにあり、いつでもここにあり、どこかへ行くということもない
・ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき
すべては、気づきの中で気づかれているだけで、気づきの外が存在したことはない
・むげんにびぜっしんに
六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)は、気づきの中で気づかれているだけで
・むしきしょうこうみそくほう
同様に、六識によって感じる六境(色、声、香、味、触、法)も、気づきの中で気づかれているだけだ
・むげんかいないしむいしきかい
(六根と六境を合わせて十二処、これに六識を加えて十八界と呼ぶ)それゆえ、十八界も同様である
・むむみょうやくむむみょうじん
無明(錯覚から始まった催眠状態)も、気づきの中で気づかれているだけで
・ないしむろうし
十二縁起(無明から老死まで)も、気づきの中で気づかれているだけであり
・やくむろうしじん
あるわけではないので、なくなるということもない、起こることが起きているだけである
・むくしゅうめつどう
四諦と八正道も、洞察してみれば気づきの中で起こっていることに気づかれているだけであり
・むちやくむとく
それを知る者も、それを得る者も、存在していない
・いむしょとくこ
すべては初めから、気づきの中にあったのだ(既に在るものを得ることはできない)
・ぼだいさったえはんにゃはらみたこ
あるとないが見抜かれ、在るのは気づき(気づきの内容と気づき)と感得されれば
・しんむけいげ
(感じることの素のままを味わえるので)意識の滞りは解かれ
・むけいげこ
ありのままをあるがままにしておけるので
・むうくふ
思い通りにしなければという欲求が無くなり
・おんりいっさいてんどうむそう
錯覚、思い違い、思い込み、観念、概念から解かれる
・くぎょうねはん
いまここに、ありのままにあるがまま、あるのみがありてある
・さんぜしょぶつ
どこまで行っても、あるのはこのあるだけ
・えはんにゃはらみたことくあのくたらさんみゃくさんぼだい
誰であろうと、いつであろうと、どこにいようと、何をしようと、このあるだけしかない
・こちはんにゃはらみた
それゆえに、気づかれているものに気づいているという、その気づきのみが在るのである
・ぜだいじんしゅ・ぜだいみょうしゅ・ぜむじょうしゅ・ぜむとうどうしゅ
それは兎も角、これから人智の及ばないくらいの、物凄い咒を伝えます
・のうじょいっさいく
一切の苦しみが取り除かれる
・しんじつふこ
これは嘘偽りのない真実である
・こせつはんにゃはらみたしゅそくせつしゅわつ
それじゃあ、その咒を説くよ
・ぎゃてい
往きて
・ぎゃてい
往きて
・はらぎゃてい
彼岸に往きて
・はらそうぎゃてい
彼岸に往ききった者よ
・ぼじそわか
最初から、悟ってただろう?(笑)
(悟りも無明も、気づきの中で気づかれているだけだったろう?)
・はんにゃしんぎょう
それが、真実ってやつさ