何の役にも立たない、どうでもいい話をします。
あんまり真に受けなくてもいいです。
人生を生きるうえで、こんな視点もあるんだなぁ。そんな程度です。
でも、ここは避けて通れないので、書きます。
あなたしかいない。
なのに、わたししかいない。
だから、あなたはいない。
しかし、わたしはいない。
どれもが正しく、そしてどれもが間違えている。
あなたは、どこにいますか?
わたしは、どこにいますか?
どこにいるのか、その場所を特定してください。
あなたは頭にいますか?
それはきっと、目が見えているからじゃないですか?
暗闇の中で、眼を開けていてみたらどうなりますか?
眼を開けていながら、目が見えない状態で何かをしてみてください。
口を動かし、瞬きをし、声を出して、腕や足を動かし、何かを触ってみてください。
感覚が敏感になれば、脳に血流が集中していることが分かります。
熱、あるいは微かな動きとして感じられます。
普段の生活では目が役割を担っていた部分を、他の部位が肩代わりしたことで、脳が活発に働いているからです。
あなたは、眼でしたか? あなたは、脳でしたか?
あなたは、どこにいましたか?
その場所を、特定してください。
私は、わたしを探してみましたが、どこにもいませんでした。
そして、わたしが何なのか特定しようとしましたが、特定することもできませんでした。
でも、わたしは在ります。
どんなに否定しようと、どんなに拒否しようと。
在るという…感覚とも言えない感覚は、消えることはありません。
理屈のうえでは。
哲学的洞察のうえでは、眠っている最中でも、わたしが消えていないことを説明できるそうですが…。
それを経験することも、出来るらしいです。
しかし、私は体験したことがないので、分かりません。
わたしは在るが、わたしはどこにもいないし、わたしは誰だかわからない。
その事実のままに、わたしと世界を見続け(気づき続け)ました。
わたしは空間になりました。
いえ、なにかになることなどできません。
わたしは空間の様な性質だったのだと気づきました。
これが、存在。
すべてを映し出し、すべてに気づいている、何か。
それが、存在。
しかし、このまま知だけが先行すると、絶望するかもしれません。
いまここに在り、あるがままの美しさを知ると、絶望はありません。
すべてが愛だと知るからです。
すべてが愛だと感得したなら…存在が在るという事実に溶けるでしょう。
そこにはもう、抵抗するものは何もありません。
いえ、逆に。
抵抗を続けてきた私の愛を、わたしを守らんとしてきた私の深い愛情が、とても愛おしい。
抵抗の、本当の意味を知ります。
気づいたら、苦しめて生きることは、もうできません。
どうしたって、喜びから生きるしかありません。
いまここに在ると、静かな心地よさの後に、喜びが在ります。
しかし、私には、まだ自己主張する私が居ます。
その自己主張の意味するところの理由が行われれば…。
おそらく、役割は終わります。
意味する理由に気付いただけで、もうすでに影が薄くなって来ています。
行きつ戻りつしながら、右へ左へと振れながら…。
上がったり、下がったりしながらも…わたしは、喜びに生きている。(らしい…笑)