私がいなければ、何も経験できなかった。


私がなければ、何も存在できない。


私が私であることに気づいたとき、とても静かで、それでいて嬉しくて、最高に安心しました。



上記のこの私とは、自我の私のことではなかったけれど。
もし、今までの人生で私を無くしていた人にとっては、自我の私を取り戻すことが、先決だとも思います。


他者に主体性を委ねていた、周りの人の顔色や、他人の目を気にして生きていた。
そんな経験は、誰でもが持っているのではないでしょうか。
私も、ずいぶん昔からそうでした。


それが上手く機能している間は、気配りや思いやりとして発揮されます。
しかし、それが機能不全になると…。
様々な問題を引き起こしますね。(^^;)



これは、私自身の経験からですが。
一度外側に預け委ねてしまった主体性を、また再び自分自身の手に、本当の意味で取り戻すのは、とても難しいです。


本当の意味で主体性を自分の手に取り戻したら、自分でもすぐ分かるし、第三者から見ても判別がつきます。
それの一番の特徴は、「他者を気にしていない」という事です。


なーんだ、そんなの当たり前じゃん!!って思いますよね?きっと。(^^;)
ところが、ここが間違えやすい所なんです。


「他人なんて、気にしてないもーん」って言っている時点で、思いっきり気にしてます。(笑)
本当に気ならなくなったら、そもそも、そんな考え自体、思い浮かびません。
日頃から思い浮かばないから、自然な対応ができます。


ところが、気になっているのに、気になってないと自分に言い聞かせて誤魔化している人は意外と多くいます。
で、そういう人は、どこか不自然に見えます。



そういう事は、どうして起こるのでしょう?
一体どこでどう、ボタンを掛け違えてしまったのでしょう?


これも、私達の本性である意識の、不思議な働きの一つじゃないかと。そう思えます。


風邪で寝込んでいた最中も、目覚めた意識状態であれば、苦しんでいるのは私ではない、ということは、自ずと認識しています。
ところが、この苦痛が長引いたり、極度に強くなれば、私は苦痛と一体化します。
つまり、強い刺激の方へ引っ張られて、それと同一化してしまう。という特徴が、意識にはあります。


それが幼少期に起きていたら、私達に抗う術はありません。
何も分からないままに、揺られ揺さぶられ続け、そしてどこか安定できる地点で止まろうとするでしょう。
その時、その時点で安定していると思えたもの…。
それが、他者であり、一般常識であり、ひいては世間体なのだと思います。
(ちからのあるもの、影響力のあるもの等)


しかし、そのどれもが他人。
どこにも私はいません、どれも自分ではありません。


すると、私は私自身と向き合うことなく、他者の目として生きてしまいます。
でも、ここでも私達は見捨てられていません。
他者が、私を映す鏡として機能するからです。



私を自分自身の手に取り戻すには、何も考える必要はありません。


いま、ここに在る、自分を感じるだけでいいんです。


あなたは、いま、ここに、存在していますか?


あなたが、いま、ここに、存在しているのであれば、話は早いです。


あなたが存在しているというその感じ、その感覚を、見つめてあげてください。


あなたが存在しているという、その感覚を、なるべく多くの機会で感じてあげてください。



自分自身を認め、自分自身を愛することが、他人から主体性を取り戻す第一歩になります。






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