この世の法は全ての人を裁けない。為に人には良心があるから人で、良心無き者は人で無しの獣


ある意味、現在の神界は大本教神諭に「世に出ておられる神々が四つ足である」ことを暴くぞとある様に異常なのです。

故に創造神(天帝)による立替論が生じているとも言えるのです。

この世の勝ち組は何かしらの悪事をしている。
悪をしなければ勝ち組として残れない。
法は全ての人を裁けていない
たまたま自分は運が悪かったから、
こうして捕まることになっただけだ。

すると捜査検事は言います。

法があるからと言って法で全ての人を裁けません。為に
人には良心があるのです。人は良心があるから人であって、良心を持たない人などは人の顔をしている獣です】。

その言葉は単にドラマの中の捜査検事の一セリフです。しかし、
神霊だ神だと騒いで神社に言っても、
そのセリフを参って来た者に口に出せるだけの神霊が居られるのかなのです。

自己に良心を持たないは獣と同じこと

(天帝が言われる人とは良心がある者)
​獣に愛はあっても良心は無い

私はこのことを何度も言って来ました。

【人の顔をしていても、その魂は毛物(獣)】



私が神霊世界に修業に入って気がついたのは、

【神とは良心を失った者達か?】

でした。

当時、
私は動物霊達は神霊に成っているのに、
どうして人は死して神に成れないのか?。
大いなる疑問に襲われていたわけです。

そこにあったのが
【ミカエル(身変える)】
現象だったわけです。

私は大本教神諭に残された「九つ花」によって、
56億7千万の「みろく」の意味を引き出すことが出来ました。

「米」教です。

その答えはお釈迦様の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する】の引き出しでした。

お釈迦様の教えを忘れた人達に対して、
56億7千万後に現れてお釈迦様の悟りの教えを告げるのが
「弥勒菩薩」
とされているのですが、
実によく出来た言葉の仕組みであったわけです。
 
勝てば官軍。負ければ賊軍
の力に頼る今の神霊界において、

言葉の仕組みの解読がどれほど人々の役に立つのかは私にもよく解りません。
 
自分が誰と出会って何をしようが、
何を食べようがどうでもいいことなのです。
問題はそこから先なのです。

私がいくら人に内在する「良心」神を説いても、
低級霊にコロリと欺されているスピリチュアルでは、
何をしても神の愛で赦されるとか、
愛ばかりを言って自分を悔い改めるとか恥じる等の言葉は一切出されません。

そもそも他の話を聞こうともされません。

私自身が2番目の師匠の元で、
国常立尊と名乗る神霊の奇跡力に
それが【ニセの国常立尊】と解らずに
引っかかった口ですから、
決して人に大きな事は言えませんが、

たとえその霊が天之御中主とか国常立尊と名乗っても本物とは思うなです。
疑ってかかって、
本物ならばその証拠を出せと迫ってもいいのです。

それは奇跡力ではなく、
人としての在り方とか神としての在り方を聞いていけば、
低級神霊はまずボロを出します。

神だ神だと思わせることだけに集中しているからです。

これだけニセ神が世に横行していると、
本物の天之御中主とか国常立尊であれば、
疑ったとして赦されてその証拠を見せてくださるでしょう。
決して私を疑うのかと叱られるもないでしょう。
しかし、
その前にスピリチュアルで出て来るような低級な存在ではないのです。

私が子供の頃、私に臨んだ声は
「そなたを社会の底辺に置く。
その社会の底辺で人の心のあり方に関して学ばさせる」であって、

それは鬼の検事になる道ではなかったと言えます。
 
この国常立尊様とは
天では「天之御中主」とされ、
仏教での地獄の「閻魔大王」その方だと言われています。

地獄の判官とは、
この世の裁判官と検事と弁護士の3役を同時に受け持っており、
それだけにそこには自己の「私利私欲」があってはいけないのです。

常に中立と公正の判断が要求されます。

また私利私欲でない「情」も必要なのです。
時には法の杓子定規の規定ではなく、
何故にその人はそうなったのかの背後を見て、
情による酌量の判断もしなければならないのです。

それは法では何も解決しないがあるからです
 
私が見た古いドラマの捜査検事が言った言葉のように、
この世の法は悪も見つからなければ世の表に出て来なければ見逃されてしまいます。
しかし、
人には「良心」と呼ばれるものがあるのです。
その良心が在れば人で在り、
その良心を持たなければもはや人では無い獣(魂は毛物)なのです。

神々がいくら貴族の様な服装や十二単衣で現れても、
蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や犬霊であったりで、
それは【天帝の法】により
真の霊力を持った者にはその姿を見破られてしまうのです。

良心が無い者は人の姿をしていても人では無い人の姿をした獣なのです。

 
こうしたことは
別に私が「米」教をもってして、
人に内在する良心神を
ここまで説明するほどのことではなくて、

人に内在する良心神はお釈迦様の本当の悟りで在った様に、

人ならば誰しも本質的に持っており、

他から教えを受けなければ解らないというものではなかったはずなのです。

私達は本質的に感じていることなのです。

解っていたことなのです。

古来より言われる良心の呵責です
 
良心の呵責が無い者、それはもはや人ではないのです

​単に人の顔をした獣(魂は毛物)に過ぎないのです