大切な人を心配し過ぎて疎まれる時には。 | 良い コトノハ じまりになりますように♪ midori,a~秋田緑~

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上がって落ちてまた上がる。でもよく見たら マルになってる♪

秋田先生ありがとうございます。

〜中略〜

先生の解説に一緒に車🚗に乗って居るけど運転して居るのは私。を見て目から鱗でした。大切と思う相手程心配で、余計なお世話を焼いて嫌がられております😓。悪気は無いのですが、迷惑ですよね。



というご質問をくださったお客様がいらっしゃいました。

とても大切なことだと思ったのでブログにて私の思いを書いてみますねとお伝えしたので、今日はこちらをテーマに書きたいと思います。


必要以上に大切な人を心配してしまうとき


かつて私もそうでしたし、きっと今も家族に対しては割とそういう部分を持ち合わせています。

仮に私に子どもがいたら「毒親」だったのではないかとさえ思ってしまいます。

そんな私がどうやって大切な人を心配しなくなったか…いや違う。心配はすれど「それ以上に信用できるようになったか」をお話したいと思います。



20代の頃、身内が重度のパニック障害で

自殺願望があったため、毎日のように

電話が鳴れば訃報ではないかと怯えて

過ごしていた時期がありました。


明けても暮れても泣き続ける身内を前に

家族も疲弊していき、どうやって大切な

存在を死なせないようにするか日夜精神

をすり減らして家族全員で眠れない夜を

過ごし続け、そろそろ生活に支障が

出始めたとき、懇意にしていた占星術の

先生がこんなアドバイスをくれました。


「死ぬ時は寿命だからもう腹を括って。

 他の家族が翻弄される必要はない。

 それがその人の運命ならば諦めて」


長く眠れない夜を過ごしてきた私達に

とってその言葉は突き放されたようにも

思え衝撃を受けたけれど、

それ以上に心の底から安堵して、

救われた瞬間とも思えました。


「その時は、その時」


その言葉が、ある意味

私を私のど真ん中に戻してくれました。


私は、自分の人生のハンドルを放棄して

パニック障害の家族が運転する車の

助手席で、あっちこっちと指図はすれど

その存在のことを導くことも引き上げる

ことも出来ていなかったのです。


そう痛感した瞬間、目が覚めました。


良かれと思って寄り添っていたけど

それは真の寄り添いではなく

「私が」辛くならないための寄り添いで

「私が」悲しくならないためのエゴだった

のかもしれないと気付きました。


目の前で苦しんでいる家族を救いたいと

思って来たけれど、それ以上に

苦しむ家族から早く逃れたい、

早く笑顔になって欲しいとばかりに

苦しむ家族の本質を見ようともして

無かったのかも知れません。

(その時は出来ていたつもりでした)




占星術の先生にアドバイスをもらって

私はようやく眠れるようになりました。

私が寝ている間に命を絶ったらどうしよう

…といつも不安でしたが、それももう

いっそ受け入れようと決めたからです。


どんな選択も、本人が望むならそれが

いいのかもしれないと受け入れて

諦めて、腹を括ったのです。


そしたら何が起きたかというと

まず、自分の身体にも目を向けるように

なりました。


ちゃんと自分のケアもするようになり

ちゃんとゴハンを食べて、眠るように。


そしたら余裕ができて、自分の「好き」

「嫌い」を言えるようになりました。


妥協して嫌いなものも受け入れたり

取り入れたりしていたのを、少しずつ

やめたのです。

そしたら楽になって、楽になったら

自分のことが好きになってきました。


自分との約束をきちんと守れるように

なって、自分に優しくできるように。


それと同じ頃、私は自分の決断を

信頼できるようになっていました。


諦める

腹を括る

受け入れる


それができたら、自分を信じることが

できてきてることに気付きました。


私の決断を

私が信頼出来る。


こんな強いエネルギー、

知りませんでした。

そしたら面白いことに周りの人達の

決断も信頼出来るようになるもので、

不安で苦しむ家族のどんな決断も

「許可」できてる私がいたのです。




それで分かった。

私は、

家族をコントロールしていたのだと。


幸せになって欲しい

笑顔でいて欲しい

元気でいて欲しい


それはみんなが望む当たり前のこと

だとは思うけど、苦しむ家族のその

原因を突き詰めるよりも先に


私が楽になるために

「〜して欲しい」というエゴで

家族をコントロールしていたことに

気付いた私は、そのゾーンから降りる

決断をしました。


本人の決断に任せる。


必要以上にアドバイスするのも

見守るのも、気にかけるのも

やめたのです。


私が私を信じてるように

私は家族のことも信じると決めて。



上っ面だけの決断ではダメです。

本当に心の底から決めた時にしか

物事は動かない。

やったつもりでも現実が変わらない時は

「つもり」なだけでやれてない。


何度目かのチャレンジで本当に

信頼でき始めたとき

家族が変わりました。


それも、あっという間に。


それまで十数年かかっていた断薬が

あっという間に終了しました。


今、誰よりも幸せで充実した人生を

過ごしている姿を見て、本当に嬉しい。


そして家族の全ての経緯は

私にこの気付きを与えてくれるための

エピソードだったのかなと思うほど

その出来事のお陰で、

私は自分を

家族を、

周りの人生を

信頼できるようになっています。






誰かを心配してしまうとき

良かれと思ってしてしまいますが

「心配」のエネルギーは低く重いので

相手の人生にねばねばしたトリモチの

ような妨害エネルギーを送ってしまう

こともあります。


心を配ることはとても素晴らしいと

思うけど、少しだけかろやかに

心配から信頼に変えて

送れるといいのかなと今は思います。


とはいえ

私は大切な人から心配されて喜んだり

愛を感じてニヤニヤしたりもするから

時には良いと思います。


ただ、「too much(必要以上)」だと

やはりねばねばエネルギーになって

しまうので、かろやかさは常に

意識されるといいのかなと思います😊













ご質問からお時間を頂きましたが

私の思いを書いてみました。


これが全てではないし正解でもなく

それぞれがそれぞれの形の愛し方でいいと私は思っていますが、とても楽になったので記事にしてみました。


大切な存在ほど心配は増しますが、やり過ぎてしまいそうになる度に、信頼と心配のエネルギーの違いを思い出してもらえたらなと思います✨️


信頼されたエネルギーを送られたお相手は

もうあなたに

心配かけない生き方をしているかも

知れません照れ✨️