まだまだ浅い認識で、頭の中がごっちゃですが、書きうる限りで挑戦します。

いくつか文献を読みましたが、水嶋一憲(1997)『かくも脆いこのとき フーコーと暴力のアクチュアリティ』

がもっとも参考になったのでこの内容を書きます。


ここではフーコーの割と全般にわたる認識が記されていたように思えます。

その中で権力と暴力の話についてまとめてみます。

やはりフーコーは権力論から暴力を主に語っているようです。


まず彼の権力の認識から

1.他者の行為に対する行為

2.前提としての他者の存在

3.同様に他者の行為(レスポンス、抵抗)の受容

の3点を導き出すことができます。


で、先に述べますとそれに対して暴力では

1.他者そのものに対する行為

2.not 前提としての他者の存在

3.他者の抹消、および他者の行為の抑制

を指摘して、権力と区別しています。


つまり、権力とはいわば他者との関係性の中に生まれるゲームのようなものです。

『暴力の哲学』(酒井隆文著、河出書房出版者、2004年)ではサッカーに例えています。

サッカーのプレーヤーはディフェンスにて相手の行方をさえぎることで相手の行動を阻止、抑制します。

またオフェンスもフェイントをかけることで自らの行動に道を開きます。

同様に権力も相手に行使することによって相手を抑え、自己に有利な状況を作ることが可能になるのです。

しかし、このとき相手は何もできないわけではありません。相手も同様に守ったりフェイントしたりといった「抵抗」によって逆転を狙います。

つまり権力は行為と行為のぶつかりあいなのです。そこには両者ともに可能性が残されています。

また身体に直接打撃を加えることは原則としてありません。


一方暴力についてはどうでしょうか。フーコーにおいて暴力とは直接的なもので、その対象は相手の身体であります。そしてその目的は相手を消滅させることだったり、相手の行為(抵抗)の可能性をなくしたり、抑圧したりする。そこには他者との関係性が無視されます。


そういった権力と暴力の区別がなされますが、一方権力と暴力の関係を考えると

暴力は権力の一形態であるとします。


ここが少しわからない部分です。


権力には暴力の可能性も同意の可能性もあるとします。

ではフーコーのいう規律・訓練型の権力などといったものは権力なのでしょうか、暴力なのでしょうか?

むしろ権力の実体とはなんなのでしょうか。


この辺が微妙に曖昧であります。


ので今後としては暴力と権力の関係性、位置づけをより明確にしようと思います。

おそらくそこにはまた違う要素を見出す必要があるのではないでしょうか。


ひとまず今日の段階では「他者との関係性」というものがひとつのキーであることを理解していただきたいと思います。


稚拙な内容ではありましたが、少し自分の頭もすっきりしたように思います。

また次回をお楽しみに。



少々古い論考であるが、内容としてはなかなか面白いモノだったので紹介しようと思う。1972年に書かれたパーソンズの文化統合に関する論考。筆者は丸山哲央氏。表題は「文化体系の統合~パーソンズの行為理論をめぐって~」(金城学院大学,1972)


丸山氏は論文で、パーソンズにとって、社会体系と文化体系とは「相互に自律したもので、完結したもの」であったとする。パーソンズが一般行為理論から文化体系を理解する際、諸々の文化的機能(儀礼や仕来り等々)に注目するが、それは人類学者などからすると既に彼らが文化体系の一部として完結したものなのであった。あくまで社会学の視点、更に言えばパーソンズの行為理論から解釈しようとした文化体系において、文化要素間の統合の要となるものとして、丸山氏は三つの具体的な行為を挙げる。


①認知的行為

②カセクシス的行為

③評価的行為


がそれである。その中で最も優位に来るのは③の評価的行為であるとする。そして、更にその理由として③の概念を細分化し説明する。つまり、コレは


(1)認知

(2)鑑賞

(3)道徳


により構成される。この中で更に優先、つまり最優先されるものとして③と(3)の組み合わせが挙げられる。これは道徳的価値基準とココでは呼ばれ、行為理論において文化は「かなり規範的特質が強く描かれている」色を際立たせる。これが規範的機能主義的な解釈になると、あらゆる文化装置は道徳的価値基準から発したモノであり、それらにより社会構造は定義されるということになる。パーソンズの有名なAGIL図式もこうした観点により理解が可能となる。


であるが、しかしロバート・マートンなどにより批判される。それは道徳や規範とは自明なものなのか?という根源的な問いである。これに関しては規範的機能主義の立場からでは判断することが出来ない。何故かというと、社会を社会構造とそれを構成する機能的側面から考察している立場をとっているからであり、更に、非常にマクロ→ミクロ的な矢印が作用するからである。


しかしながら、社会システムの中で文化諸装置が規範を創り出しているという考えは、フーコーやサイードの言説とも関わってくる。これからが楽しみである。

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