見城徹さんの『読書という荒野』を読み終えた。この平穏な日常の、どこに飛び込む暗闇を見つけられるのかと、悶々としていた自分が恥ずかしくなった。書籍にはどこか虚構の世界があると、読書に没入しきれなかった自分を恥じた。

自ら、また経営される幻冬舎からベストセラーを世に送り続ける稀代の編集者、見城徹さんが何故ここまで過酷を背負って居られるのか、疑問に思える事が良くあった。普段、話題にされる革命家、奥平剛士や安田安之らと実際に活動を共にされたのかとも想像した。読了後、著書で表現されている読書という自らの荒野を歩まれたからこそなのだと理解した。常人を凌駕する鋭敏な感性と切実さを持って読書という荒野を歩むので有れば、物語が自己の実体験として同等の血肉になりうる。反対にそうで無ければ作者が示した荒野を歩んだ事にはならない。本当の編集者は自殺を考えるまで著書と同化して荒野を歩まれる。

他の読書家が何故見城徹さんと異なるのか。物量の差異ではなく姿勢、感性。読書という荒野への向き合い方。秋元康さんが「見城徹の読書は血の匂いがする」と表現された意味が良く理解出来た。言葉が認識を促し、文章が数限りない荒野を提示する。著者が紡ぎ出す荒野において、孤独でしか対峙し得ない、現実社会と同等な荒野での格闘を経験させられる。過酷な体験を強いられる。感性は容易に真似る事は出来ないが、姿勢は可能。それによって一歩でも見城徹さんに近づける。御本人の読書経験を通じて、歩まれた様々な荒野を感じさせて戴いて居る。そうだ自分にも吸い込まれる様に、眠りを覚えずに本を読み込んだ事があった。それは確かに自分にとっての荒野だった。


『読書という荒野』を読む間、紛れもなく荒野に晒される自分を感じた。見城徹さんの文章が淀みなく心に迫る。言葉の選択、句読点の付し方。書き物としての存在を忘れ、文字が話し掛けて来る様に感じた。正確に言葉を理解しようと、久し振りに辞書を引いたりもした。これが本物の文章なのだと理解した。時に迫り、時に存在を消し去り語り掛け、時に悲しみを共有させられる。音も、映像も、匂いもない白黒の文字に、これだけの表現力が有ると言う事を改めて思い知らされた。見城徹さんに与えて戴いた荒野に、しっかりと対峙させて戴ける至福の時間だった。


これまで様々なメディア、特に755と言うSNSを通じて示されて来た見城徹さんの思い、規律、姿勢、経験を『読書という荒野』で見事にまとめ切って戴いている。見城徹さんが自らの血肉を造った読書を書き切って戴いたのだと感じる。御本人の原点がここにある。見城徹さんの元に、世のトップオブザトップが、多くの志しある優秀な若者達が集われるのは、67才にしてなお、眩いばかりの功績を残されてなお、自らが悲惨の港を目指し航海し続けられているからこそなのだと思い入った。


読了後、世の中が違って見えた。世の中に溢れる文字が浮かび上がって見えた。感覚が研ぎ澄まされている様に感じた。有り触れた文章の一つ一つでさえも、俺の荒野をどう読むのだと問いかけて来る様な、そんな奇妙な感覚に襲われた。この本は、間違いなく私の此れからの人生に、これまで歩んで来た以上の試練を私に与えてくれると確信している。


『読書という荒野』の前後では感性が変わる。人生との向き合い方が変わる。『読書という荒野』と共に、平和な日を送るよりも、悲痛な日を送るのだと意を新たにした。