第一部 山人って何? 32回


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 京子は花田に連絡してから、花田との縁を切るため、誰にも何も告げずに出雲大社へ向かった。花田はコロンボが来たという知らせに対して、鈍感であった。コロンボは殺人未遂事件を追っているのであって、花田の売却、横領について探っているのではないと、言っていた。そうは言っても、警察の人間が来たというだけで、京子にとっては怖いのだ。
 しかも、花田に身体を許したのも、脅されたからだ。なかば強引あるいはレイプかもしれなかったが、処女だった京子にとって、何もわからず、従姉妹に対する背徳感という、明治時代のおんなならではの、貞操感、思想に支配されていたからだ。ずるずると脅されては繰り返す肉欲の関係。ほとほと嫌気がさしてきていたので、ここはほどよい潮時とばかり、逃避行に踏み切った。
 出雲大社に参詣し、花田の子供を身ごもっていることを想いだした。サキにはふたりで熊野にお参りしたときに、名前こそを告げなかったが、妻子ある男の子どもを身ごもったことを打ち明けた。サキは煙草の紫煙を漂わせながら、「で、どうするの」といった。京子は、一瞬何のことかわからなかった。というのも、京子にとって、秘密を共有してもらうことで、心の重みを取り除きたいだけだったのだから。しかし、サキは現実的だった。相手に、奥さんと分かれてもらうのか、それとも、堕ろすのか、あるいは、生んでひとりで育てるのか。そして最後の手段....。それについて、サキは触れなかった。生を選択する道以外は考えないという、サキの心には、もしかしたら京子なんかよりもっと深い体験によって、鍛えられた何かがあるのかもしれなかった。
 淡々と京子の打ち明け話を聞くサキは、淡々と京子の今後について、アドバイスしてくれた。花田って奴、何か妖しげなのだから、あたしだったら分かれるよ。もし、ひとりで育てるんだったら、どこか身寄りを見つけたほうがいいよ。あたしも知っているところがいくつかあるけれど。京子はしかし、微笑みながら、大丈夫、落ち着いたら連絡すると伝えた。
 そして、コロンボがやってきたのだ。
 店の支度を始めた頃、ドアが開き、コートを来た風采のあがらない中年男が入って来た。二日酔いのような顔で、火のついていない葉巻を咥え、もじゃもじゃ頭を掻きながら、マッチもらえませんかと、京子に近づいてきた。お店はまだだと告げると、背広のポケットから手帳を取り出し、ロサンゼルス警察のコロンボ警部だと名乗った。警察の方が何か、と京子は花田から聞いていた台場公園と那智の山林の売却話と、大根の保険金についての捜査なのかとわかってはいながら、白を切ろうと思った。
 マッチで葉巻に火をつけながら、やぶにらみの表情で、コロンボは店を見渡しながら、「ああサキさんのお店の間取りとはちょっとちがうんですね」とのんびりした口調で言った。ちょっとはぐらかされた感じがした。
「ええ、こっちのお店はサキのお店より後にできたけれど、少しこじんまりしているんです」
カウンターの椅子にちょこんと座り、葉巻の灰を、京子の差し出した灰皿にゆったりした動作で落としながら、こんなことを言った。
「ところであなた、花田さんから脅迫されていることがあったら、いつでもあたしに言ってください。警察は力になりますよ」といって、京子の腕を軽くたたきながら、顔だけは京子のほうには向けずに、それだけ言うと、じゃ、そういうことなので、安心してください。扉から外へでるときも、大きく腕を振りながら、にこやかに去っていった。
 京子は力が抜け、手近な椅子に座り込んでしまった。コロンボはすべてを見抜いているというのだろうか。
 こうして、京子は逃避行に踏み切ったのだった。


 
 何かの呪法なのだろうか。最初、熊楠はそう思っていた。台場公園の売却事件の背後には、一農民の横領などという生優しい事象ではなく、もっと大きな組織がいるのでは、と考えていた矢先に、美元財団の名前を知った。
 大根泥棒の問題は、テトラ学園に大量の大根を売りながら、盗まれたということにして、花田は妻に知られないように大根の代金を着服していたという、小物の事件だった。テトラ学園では、何のことかさっぱり分からないのだ。警察が事情聴取に来たときも、北川の殺人未遂事件の捜査ということだったのだから。テトラ学園や他の学園、いずれも美元財団の支援する学校で、実習授業で作ったたくあんは、市場で売られ、南方家でも食していたのだが、売り上げ金は学校の美術の教材費として使っただけなのだ。学園は無実となり、校長は大汗をかき、教頭は校長の失脚がないことに、密かに舌打ちしたのでは?
 サキの店で、門前ルイーズの知っている情報を聞き、熊楠は帰宅するや、プラトンの四元素の話の出ている書物を探した。古代ギリシア語の他、ロンドンにいる頃入手した、シュリーマンの翻訳となっている「ティマイオス」「クリティアス」の写本も、自宅の書庫の奥から引っ張りだした。トロイの遺跡を発掘したシュリーマンは、しかし、なぜ、プラトンに興味を持っていたのか分からない。イーリアスなどの叙事詩にしか興味がないものと思っていたのだが。翻訳の序文に、フランス語で、アトランティス神話は神話なのか、というくだりがあり、海洋民俗である日本にこそ、その秘密があるかも知れないというようなことが書いてあった。そして、幕末の頃、坂丘家から蓬莱について教示を受けたとあった。
 なぜ、美元財団の経営する学園は、プラトンの正多面体の頭文字からとった名前なのだろうか。民俗博覧会のほんとうの目的は何であろうか。ここに、何か本質が隠されていると思った。
 野次に連絡し、大根泥棒の件の調査費用を払うことにして、ひとまず大根の件は終わりにしてもらい、来る民俗博覧会についての調査を、別件として依頼することにした。野次は、実は相棒の事件のこともあり、みずから調査する予定だったという。警察のコロンボ警部も、ロスへの帰国を延期して、協力してくれるらしい。
 呪法だとすると、土宣(どぎ)先輩に出張ってもらう必要があるので、早速、仁和寺にいる土宣法竜先輩へメールした。
 さすがに、土宣先輩も美元財団という名前は知らないようだったが、しかし、坂丘家という名前については知っているという。坂丘家は、蓬莱に関しての伝承者ではなかっただろうかという。実は、かの偉大なる空海大師が高野山を拠点にして、真言密教を伝承した背景には、その坂丘家と大いなる関係があるらしい。土宣先輩は、メールに簡潔にそのように返信してくれて、更に、最近足腰が弱っているので、自分の代理人を田辺に別の用事があるついでに、使わして、詳しい話をさせるとあった。
 熊楠はこの間、サキの店で知り合った全員とツイッターによって、お互いにフォロワーになってもらった。サキ、ルイ、ゲンちゃんと熊楠の四人は、ツイッターにより、状況把握の一手段とした。野次と北川にもフォロワーになってもらい、蜘蛛の巣のように、美元と坂丘の画策する、眼に見えない企みが動くたびに、蜘蛛の巣の網にかかるように準備をしていたわけだった。
 六月になる空はどんよりとして雲に覆われていた。熊楠は咥え煙草で、ツイートの状況を確認するのだった。庭の紫陽花のつぼみがだいぶ大きくなっていた。
(次回へつづく)