第一部 山人って何? 36回
登場人物の紹介
第一回へ
前回へ
登場人物の紹介
第一回へ
前回へ
空海が帰国したのは、遣唐使として唐へ渡ってから三年後のことだった。
その間、恵果という当時唐で、密教の最高峰の権威から、空海は密教の奥義を授かり、教典を写経し、法具や仏像、書画のレプリカを、船に積みきれないほど用意していた。
ところが、坂丘一族にとって、思わぬ誤算があった。
恵果は、古くから神仙界の超人達との付き合いがあり、その為にこそ、密教の奥義を授受できたのだが、それと引き換えに、蓬莱の浮上を阻止するという使命を持たされていた。神仙界には、蓬莱が沈むときに、大陸へ渡って生き残った者がいた。いわゆる仙人と呼ばれている者達だ。インドでは、ヨーガの行者にまぎれている者もいる。彼らは、蓬莱が海底へ沈んだ理由である、最終兵器の使用の恐怖を知っていた。また、不老不死ではないが、長寿の術を身に付け、百数十年の間に、継承者となれる者を発見しては、秘術を授け、そして、蓬莱の浮上を阻止すべく、守護役として継承者を育成しつづけているわけだった。
「余談ですが」と龍仁は言った。「ノアの箱船も、アトランティスの沈没の物語らしいということを聞いていますが、それはまた別の機会に」と言って、四つめのあんぱんを頬張りながら、話を続けた。
恵果も神仙の継承者のひとりであり、僧侶になりすましていたのだった。空海は恵果から、同じように、蓬莱の浮上を阻止する使命を継承した。これが、坂丘一族の最大の誤算であった。密教の秘術と、日本の三種の神器のパワーとは、同等の威力を秘めていた。易の陰陽の構造こそ、蓬莱の秘密を象徴していた。五元素は、プラトンの四元素を拡張したもので、易の占いに使う、陰陽の組み合わせによる形像も、正多面体の面の数、辺の数、つまりは、後にスイスの数学者、オイラーが発見した、数理に通じる法則そのものだった。
こうしたことは、空海のお付きの僧侶、すなわち坂丘の送り出したスパイから、日本へ書状で知らせていた。ところが、坂丘家の所有する船といえども、半年に一回の航海しかできない為、情報連携に時差があり、空海を洗脳したり、蓬莱浮上の阻止という使命を、改めさせる機会のないまま、帰国の時期が到来してしまった。
それは、恵果の入滅とともに、空海の使命感、また、恵果から知らされた坂丘一族の野望が、空海を更に、帰国へと至らしめたのだった。「はよ、帰らなあかんけにのう」あるいは、空海はそう、呟いたかもしれない。
坂丘一族は、桓武天皇の崩御とともに、皇室の権力をカオスに戻し、紀伊半島に近い、奈良へ都を戻したかったのかもしれない。薬子の権勢を支援したのも、坂丘の人形浄瑠璃師としての、お手前なのだった。
平安京で、最大のSM女王、薬子の前ではいかなるヲノコといえど、「女王様」と呼ばしめる、恐るべき魅力と魅惑とあの世への近道があった。空海の帰国を待ちわびていたマブだちの伊予親王は、薬子によって、ロウソクと肛門科の医師でも治療不可能な技により、縊死していた。もちろん、坂丘一族の罠によるものだが、皇室も貴族達も、そんな事とは露知らない話になっていた。
空海は、太宰府に船で到着するや否や、坂丘の指示により、京の都に入城禁止された。やがて三年経ち、嵯峨天皇が即位するとき、ようやく京の都へ入京できたのだ。その間、坂丘は、空海が持ち込んだ密教の教典から、蓬莱の秘密を探るべく、画策をしていた。つまり、最澄を使って、教典を借り出すことにしたのだ。だが、膨大かつ難解な教典の写経と理解がなかなかはかどらず、しかも、蓬莱に関わる肝心な部分は最澄が貸し出した中にはなかった。
最澄自身、坂丘の野望などまったく知らないので、単純に真言密教の教典を理解することに務め、月に一度の報告会では、真言密教の理論分析結果のみを聞かされて、参加していた坂丘に雇われた者達はいつも欠伸まじりで、彼らの報告をまた聞きする坂丘自身、欠伸まじりで、彼らをすぐに下がらせた。
結局のところ、空海は最澄の申し出を、最後には断ってしまった。つまり、最澄のまだ読んでいない文献に蓬莱に関する部分が最後に残っていたのだが、空海は恵果から継承した話、即ち坂丘の野望を思い出し、最澄と坂丘がタイアップしている可能性に思い至ったというわけだ。
嵯峨天皇と平城上皇との対立の背景には、今までの流れから分かるように、お約束である坂丘が黒幕として控えていた。SM女王薬子に、骨抜きにされた夫と他の派閥者達は、奈良の平城京への遷都を画策していた。平城京への遷都は、しかし、坂丘の野望でもあった。空海の持ち帰った法具がレプリカであり、蓬莱浮上に役立たないことを知った坂丘は、やはり三種の神器をもって、蓬莱浮上計画に踏み切ることにした。
薬子とその兄、式家藤原仲成らは、平城上皇派として、嵯峨天皇に対して反乱を企てた。奈良派の援軍を集めたのは、坂丘だが、嵯峨天皇からみて、坂丘というのは、見えない存在なのだ。なにしろ、当時から商人のような外面なのだから。貿易商と思っていただろう。
嵯峨天皇は、(アフリカンであり、かつての征夷大将軍でもある)坂上田村麻呂らを使って、薬子らの反乱軍に奇襲をかけ、敗退させた。薬子は、自死し、歴史上最大のSM女王もここに終わりを遂げたわけだ。当時、五十代の坂をのぼりつつあった、アフリカン、身の丈二メートル十センチの、坂上田村麻呂は、まだ健在であった。アフリカの太鼓で勝利の凱歌をあげた。薬子のサディスティックなトゲトゲ鞭のしなりも、田村麻呂の巨体には、こそばゆいばかりだったとか?
このとき、ツワモノどもの戦いと平行して裏では、平城上皇のおつきの陰陽師達と空海の呪法合戦も繰り広げられていた。中国直輸入である真言密教の呪法や、また葛城山や高野山に住む山岳修験者達、役小角(えんのおづぬ)の後継者達も、空海に味方した。太宰府にいる頃より、日本全国の修験者達に、坂丘一族の野望を阻止するためのプロジェクトの根回しをしておいたのだった。いわばプロジェクト・アンチ・アトランティスというわけだ。陰陽師達も、修験者の九字、真言のマンダラの前で、解き放った何百もの式神達もろとも、ノックアウトされたのだった。
坂丘一族は、かくして、平城京を拠点として、紀州半島の先に沈んでいるアトランティスあるいは蓬莱を浮上させる野望を、このときばかりは、空海によって、いわばトロイの木馬による仕掛けのごとく、恩と仇により、封じ込められたのだった。
空海は高野山を拠点にし、坂丘一族の野望を阻止するために、修験者連合とともに、結界を築いたのが、真言宗総本山のはじまりであった。
「しかし」と、龍仁は五つめのあんぱんのあんこをほじりながら、「坂丘一族の野望は、平家の隆盛とともに、復活することになったのです」と言いながら、幾分ぬるくなった宇治の抹茶、オテマエ・ド・パリを啜った。
(次回へつづく)