うぐいす色な記憶(3)
地層という言葉を使ったせいで、
全体のトーンが重くなった。
精神病院の物語など語ろうとして、暗転した。
私には精神病院に入院した経験などない。
そうしたことから、物語ろうとする呪縛に連れ戻されてしまう。
しかし、物語はいたるところにあふれている。
しかも、精神病には興味がある。
ジョン・ナッシュの物語が映像化されている。
「ビューティフルマインド」
数学者ナッシュの半生をもとに、精神病との戦いを描いている。
実在しない人物達が、ナッシュの周囲に現れ、
結婚生活さえも危機に陥れる。
精神病と戦う姿を、ラッセル・クロウが演じている。
この映画について、唯一不満があるとしたら、
精神病については、何か不問のように扱っている点だ。
なぜ、妄想が起きていたのか?
そうしたことにこの映画は問うわけではない。
過去の歴史の中で、精神病の扱いはいろいろある。
悪魔に取り憑かれるとか、犬神に憑依されるなど、
歴史とともに精神病については
人類は様々な試みをしてきた。
現代は病院や薬によって、精神病を患者の身体の
内側へ閉じ込める。
憑霊信仰の流行した頃は、患者の身体から何かを、
Xを追い出すことが治療の中心だった。
精神病、つまり狂気はどこにあるのだろうか?
ミシェル・フーコーは「狂気の歴史」という分厚い本を書いた。
最初の頁を読んで挫折してしまったが、狂気を取り扱う歴史なのだろうか。
精神の考古学者、ミシェル・フーコー。
脳と人間の境界線には、フラクタルが存在し、
頭蓋骨の体積と脳の体積との差は、
測定不能なのかもしれない。
ゲーデルの不完全性の証明は、精神と脳の境界が
フラクタルであることを示しているのだろうか?
Xとは何なのか?
狂気と正常との境目はフラクタルなのだ。だから、測定不能となる。
自分が正常と思うことが狂気の始まりかもしれない。
「このあたりでは皆狂っているのさ」
(チェシャ猫 「不思議の国のアリス」)
三月うさぎも帽子屋も狂っている。
フランスの数学者、グロタンディークは、
今も山奥へこもっているのだろうか。
世間が信じられなくなり、人里離れたところで、思索する。
狂っているのは、ひとりなのかあるいはその他なのか。
あの記憶ーーーうぐいす色した竹林での記憶。
ソメイヨシノが咲き乱れる頃、竹林を散歩したものだ。
世間は花見気分で一色なので、私は竹の色をひとり満喫していた。
竹はいろいろな場所で見ているのに、誰も見ていない。
焼き鳥屋やもつ焼き屋のカウンターやテーブルの隅に置かれている
串入れは竹の筒を切ったものだ。
そもそも、串そのものが竹を細く削ったものだ。
夏になるとせわしなく振られて風を作る、扇子の骨は竹で作られている。
団扇の骨もそうだ。
萩原朔太郎の病的な詩は竹林で生まれたのだろう。
春の筑前煮にはタケノコが欠かせない。
そして、ソメイヨシノの花色に酔った私には、竹の色が必要だった。
地層という言葉を使ったせいで、
全体のトーンが重くなった。
精神病院の物語など語ろうとして、暗転した。
私には精神病院に入院した経験などない。
そうしたことから、物語ろうとする呪縛に連れ戻されてしまう。
しかし、物語はいたるところにあふれている。
しかも、精神病には興味がある。
ジョン・ナッシュの物語が映像化されている。
「ビューティフルマインド」
数学者ナッシュの半生をもとに、精神病との戦いを描いている。
実在しない人物達が、ナッシュの周囲に現れ、
結婚生活さえも危機に陥れる。
精神病と戦う姿を、ラッセル・クロウが演じている。
この映画について、唯一不満があるとしたら、
精神病については、何か不問のように扱っている点だ。
なぜ、妄想が起きていたのか?
そうしたことにこの映画は問うわけではない。
過去の歴史の中で、精神病の扱いはいろいろある。
悪魔に取り憑かれるとか、犬神に憑依されるなど、
歴史とともに精神病については
人類は様々な試みをしてきた。
現代は病院や薬によって、精神病を患者の身体の
内側へ閉じ込める。
憑霊信仰の流行した頃は、患者の身体から何かを、
Xを追い出すことが治療の中心だった。
精神病、つまり狂気はどこにあるのだろうか?
ミシェル・フーコーは「狂気の歴史」という分厚い本を書いた。
最初の頁を読んで挫折してしまったが、狂気を取り扱う歴史なのだろうか。
精神の考古学者、ミシェル・フーコー。
脳と人間の境界線には、フラクタルが存在し、
頭蓋骨の体積と脳の体積との差は、
測定不能なのかもしれない。
ゲーデルの不完全性の証明は、精神と脳の境界が
フラクタルであることを示しているのだろうか?
Xとは何なのか?
狂気と正常との境目はフラクタルなのだ。だから、測定不能となる。
自分が正常と思うことが狂気の始まりかもしれない。
「このあたりでは皆狂っているのさ」
(チェシャ猫 「不思議の国のアリス」)
三月うさぎも帽子屋も狂っている。
フランスの数学者、グロタンディークは、
今も山奥へこもっているのだろうか。
世間が信じられなくなり、人里離れたところで、思索する。
狂っているのは、ひとりなのかあるいはその他なのか。
あの記憶ーーーうぐいす色した竹林での記憶。
ソメイヨシノが咲き乱れる頃、竹林を散歩したものだ。
世間は花見気分で一色なので、私は竹の色をひとり満喫していた。
竹はいろいろな場所で見ているのに、誰も見ていない。
焼き鳥屋やもつ焼き屋のカウンターやテーブルの隅に置かれている
串入れは竹の筒を切ったものだ。
そもそも、串そのものが竹を細く削ったものだ。
夏になるとせわしなく振られて風を作る、扇子の骨は竹で作られている。
団扇の骨もそうだ。
萩原朔太郎の病的な詩は竹林で生まれたのだろう。
春の筑前煮にはタケノコが欠かせない。
そして、ソメイヨシノの花色に酔った私には、竹の色が必要だった。