「論理空間の中にあるいろいろな事実が世界である」(ウィトゲンシュタイン)

「このあたりでは皆狂っているのさ」(チェシャ猫 ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」)

最近は猫の眼のように、自分の考え方がくるくると変転している。
というよりも、考えが定まらない状態でずっときている。

そもそも、わたしは論理学を手がかりにして、
哲学と数学の境界上をさまよってきたのだ。

今もさまよっている。

文学がわからないのは昔からで、
わたしの感性には文学や詩は
よくわからないというのが
正直なところだ。

だからという訳ではないが、
ルイス・キャロルのアリスものを
繰り返し読んでいる。

アルトーが、精神的な危機に陥ったときに、
ルイス・キャロルのアリスものを読んで救われたという話が
あるが、わたしの場合にも当てはまるのかもしれない。

意味というものが何であるか?

ウィトゲンシュタインは、第一次大戦に志願して従軍したらしい。

そして、戦場で、屍の累々としたキリングフィールドで、
メモを書き溜めて、捕虜となって、終戦後に帰還してから
バートランド・ラッセルの支援で、
メモを整理して出版したのが、
「論理哲学論考 tractatus logico-philosophicus」だ。

ラッセルは絶賛し、哲学を無意味にする威力がこの本には
あるのだと言った。

「世界とは事実の集まりの全体である」といった調子で、
格言?がつづき、6つの格言に枝番がつき、注釈がある。
最後の7番目の格言だけ、注釈がない。

小津安二郎やゴダールのモノクロ映像の中で、
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」について
語るシーンでもあったらどんなにクールだろうか。

ヘンリー・ミラーの「南回帰線」には「論理哲学論考」
がピアノとともに語られている。

その後、ひとつの学派が出来上がり、形而上学つまり、
従来の哲学は無意味な言葉遊びだといって、
活発な活動が始まったらしい。

ニーチェがこの分析哲学派のことを知ったとしたら、
きっと、ルサンチマンをもとに何か楽しいことを
語ってくれたかもしれないが。

「語ることができないものについては、沈黙を押し通すしかない」
これが「論理哲学論考」の結論(7番めの格言?)になる。

無意味なことについて意味があるかどうかを問う事自体が
無意味になりかねないのだが。

当時のヨーロッパは、ヘーゲルの影響が大きく、
ヘーゲルと喧嘩したショーペンハウエルは
大学を去り、フルートをふきながら、
憂さ晴らしの本を書いて一生を過ごしたほどらしい。

イギリスでもヘーゲルの影響が大きく、
こぶしを振りながら、弁証法を説く先生が
いたと、ラッセルは自伝の中で想い出話に
していた。

そんな状況で、ウィトゲンシュタインは
裸の王様達に、弁証法の形而上学は
ナンセンスな、言葉の使い方を
誤ったものだと真っ向から
言ってのけたわけだ。

やがて、時は経ち.....

ラッセルはホワイトヘッドと共著で
「数学原理」という三巻からなる
分厚く、中身は記号でいっぱいの
人類史上、恐るべき著書を書いている。

数学、それも算数を、
論理学の概念だけで記述しようと
試みたのだ。

1+1=2を証明するのに数頁を費やしている。

論理的概念で記述すると
とてつもないものになるのだが、
ラッセルは数学に矛盾がないことを
証明するために、論理体系を使ったのだ。

古代ギリシア以来、ユークリッドの幾何学体系
には矛盾がない、絶対の真理であるという
迷信めいた信念がずっと続いたらしい。
(かのエイブラハム・リンカーンもユークリッドを
愛読していたそうだ)

とはいいながら、「数学原理」で使った論理学というのは
タイプ理論とも呼ぶ言語体系なのだが、
ーーこのエッセイで後の機会にどんなものかを
説明する予定ではあるが、
ここではそんなものがあったということで
ーー現代では様相論理と呼ぶ更に拡大した
言語体系は使っていない。


そして、様相論理の体系についてわずか十六歳にして
論文を書いた、ソール・クリプキから
哲学がまた再開することになったのだ。

ラッセル、ウィトゲンシュタインらが、論理学をもとに
哲学の無意味さを説いてから、
同じ論理学の流れを組む様相の論理をもとに
クリプキは哲学を始めるという
図式(この流れには、哲学の無意味さの
先鋒だった、ルドルフ・カルナップがいて、
カルナップは後に様相論理学の本を書き、
再び哲学を始めるのだから、
歴史は変転するものだ)
は、まるでわたしの考えが変転するのに
対応しているわけだ。

最近、流行していたかのゲーデルは、
神の存在証明に様相論理を使っているらしい。

様相論理とは、ではどんなものか。

必然性、可能性、知ること、信じること、
現在、過去、未来、義務などを
記号を使って、数学として
論理を分析するものになる。

これは次回以降、いろいろと紹介する予定だ。

それにしてもチェシャ猫のいう「このあたりはみな
狂っている」という文は、果たして真偽のほどは
いかがか。

次回、そのことの分析から始めてみよう。