哲学とは概念のアートである(ドゥルーズ)


たとえば、カントの「純粋理性批判」を読まなくても
哲学することはできるだろう。

ただ、カントと同じことを考える確率とか可能性を
減らす為に、「純粋理性批判」を読んでおくのは
まぁ、よいかもしれないが。

学生の頃、福島県の山奥の元小学校を、
宿泊施設にした宿に合宿し、
堀ゴタツに男子四名でもぐり込み、
「純粋理性批判」の購読をしたことがあった。

ドイツ語と、窓の外の雪の山。
東北の雪深さというのを知ったし、
炭火で焼いた味噌田楽が美味で、
熱燗に合うというのも知ったし、
わっぱ飯も美味だった。

カントの生活の場、ケーニヒスベルクという地はとても寒い
ところらしい。

カントは、「純粋理性批判」を、規則正しい生活の中で
書き上げたわけだ。

「純粋理性批判」は、カント自身によれば、
ワインにでも酔ったかの
ように、一気呵成に書き上げたらしい。
つまり、情熱をもって書いたということだが。

その情念の根源は何だったのだろう。

簡単にいうと、科学では証明できないことを、
理性で立証することを
目指したいということだ。

つまり、神の存在証明。

スピノザは「エチカ」を書いて、
神の存在を証明して、人が幸福であるために
は喜びが必要なことを、ユークリッドのように、
定義、公理、定理、証明の形を使った。

近代哲学の歴史をみると、奇妙な情熱による、奇行が多い。

ヘーゲルは、弁証法という論理学を作って、
近代哲学を総括したという。

弁証法のすごいところは、何でも論証できることか。

マルクスも弁証法を学び、後に「資本論」を書いた。
本喰い虫のマルクスは、ヘーゲルオタクになり、
生活費は友人の実業家エンゲルスに支援してもらい
ながら、毎日、大英博物館で本を読み、勉強していた。
奥さんと娘達のいる家庭を持ちながら、
お金を稼げなかったのだが。


哲学というのは、何でも言えるのかどうかわからない。

ソクラテスというのは実在の人物なのか、
プラトンの創作した人物なのか分からないが、
とにかく弁の立つおやじだったのだろう。


まぁ、哲学のエッセイというのはSF小説なのだと、
ドゥルーズは常々言っていた。「差異と反復」

知らないことについて書くのだから、フィクションになるわけだ。

しかし、何について書くのだろう。

何でもよいのだろうか。


論理学は、ブール以来、数学者の研究対象になっている。

だが、論理学を使う為には、数学者である必要はない。
そして、論理学を使おうとすると、まだまだ、
不十分な段階だということを知る。
かと言って、言語分析とか、
日常言語の論理分析などということには
興味が湧かない。

数学は、ホワイトヘッドによると、思想なのだが、
哲学者は文系が多く、あるいはほとんどが文系なので、
数学が分からないか数学が嫌いか、
数学から離れた場所で
過去の哲学書を解読している。

数学を使っている哲学者は、
ミシェル・セールくらいしか
いないのかもしれない。
その使い方も、今ひとつらしいが。

思考のモデルとしては、数学がやはり一番よい。

そして、論理学の新しい概念を使えば、
詩ではない哲学のエッセイが書けるのではないかとひそかに
希望を抱いている。

このエッセイでは、荘子、南方熊楠、映画について
哲学論考を書こうと計画しているのだが、
いつまでも序論になるだろうけれど、
それこそ、迷宮の中、のSFなのだ。