黄昏のエクソシスト

第一回

 沈み行く夕陽を眺めていた。海が夕陽に染まり、波が様々な色に塗られてゆくさまを、岩の上に立ってしばらく眺めていた。ちょうど、一年前も、こんな具合に夕陽を眺めていたのだった。

 神が存在するかどうかについては、括弧の中に入れて、聖書もニーチェも読んでいるくせに、あの日、海辺に見えたカトリックの教会へ働き口がないか訊ねにいったのだ。若い副神父なのか、なんと呼ぶのか未だによくわからないのだが、そのまだ二十代の青年は、神経質そうな口調と態度で、神父へ聞いてから確かめなくてはならないので、と口ごもっていた。いつ頃になれば分かるのかと聞いてもなかなか埒があかなかった。そんなやりとりを、教会の庭というのか、敷地にあるソメイヨシノの樹木の下でやっていた。花びらはまだ三分咲きくらいで、これからが花見の最盛期になるという、まだ少し肌寒い季節だった。
 ちょうどそこへ、佐伯のじいさんと呼ばれている、教会の世話人、下働きの老人が通りかかった。背中に草の入った籠を背負って、手に鎌を持ち、麦わら帽子をかぶった、無精髭が白い老人だった。草刈りかなにかの帰りなのだろう、作業服のズボンに泥が跳ねていた。ゴム長靴にも泥が付いていた。
 佐伯のじいさんは、筒という見習いの神父から事情を聞きながら、私の顔をじろじろと見ていた。
「筒さんよ、なんだかハッキリしないのも悪いよ。でも今、人手が足りないんだから、ちょうどいいんじゃないの。奉仕の精神が大事っていってたしさ。井上神父もいいっていうさ。というより、井上神父は今忙しくて、それどころじゃないしさ」
「ーでも、しかしー」筒は眼鏡を指で押し上げながら、神経質な役所の係のような感じで、言葉を、決定を、判断を濁していた。
「いいよ、いいよ、俺が責任もつよ。俺も忙しくてさ、煙草吸う暇もないくらい忙しいんだぜ。復活祭がもうすぐだし、近隣からも信者達が来るしさ。年中行事でしょ。俺だけじゃよ。信者連中だってみな、今はさ、田植えや畑の準備だし、学校も新学期でさ」
 筒はようやく、責任が自分に来ないということで、しぶしぶ了承したようだ。後で、書類に名前と住所を書いてもらうので、と言いながら、眼鏡を押し上げて、教会の建物のほうへ入っていった。
 佐伯のじいさんは、私の名前を聞いた。私の名前は冬見、冬を見ると答えたら、変わった名前だねと言いながら、作業服のポケットからハイライトを取り出し、私にも一本どうかと勧めた。私は吸わないことを告げると、珍しい生き物でも眺めるように私の方を眺めながら、煙草を咥え、マッチを掏り、手のひらで風を防ぎながら、火をつけてから、長い間吸ってから、ゆっくり煙を吐き出した。
「で、なにか聞きたいことあるかい。まあ、ゆっくりやるこった」
 私が住居について聞くと、佐伯のじいさんは驚いて、宿無しなのかい、と確認してきた。役所に届けなくちゃいけなんだよな、と独り言のように呟くと、しばらく考えているのか分からないが、桜の枝や花を眺めながら、煙草を吸っていた。桜の葉影の間には、メジロが飛び移っていた。花アブや蜂も飛び回っているのだろうか。
 私は佐伯のじいさんの思考に任せて、背中のリュックにある荷物のことを考えていた。ニーチェの本と聖書が私のリュックの中には同居している。私は無神論者だったのだ。
 佐伯のじいさんは、何かを考えついたのか、煙草の煙を吐き出しながら、私の顔を見た。いや、私の方ではなく、私の背後に眼をやったのだ。佐伯のじいさんが、麦わら帽子を取って、お辞儀をしたのでそれが分かった。振り返ってみると、神父が立っていた。物腰がゆったりとした初老の男がそこにいた。
 佐伯のじいさんは、神父のほうへ近づくと、話をし、神父は頷きながら、時々私のほうを見ていた。話が終わると、佐伯のじいさんと神父は私のほうへやって来た。
「お話は聞きました。もと小学校の建物があるのですが、近隣の小学校と合併して、廃校になっていて、カトリック協会のほうで、新しい学校用に土地を購入したところがあります。しばらく工事はないので、当分そこへ住んでいただくということでいいですか。建物はまだ残っていますし、用務員の住居として使っていた建物があります」
一見柔和だが、心の強そうな神父の口調に、一も二もなく、私のほうから頼み込んだ。
 かくして、私の放浪の生活への休止期間が与えられたのだった。


(次回へ)