第十六回

第一回
前回

 喉の渇きを覚えるたびに、水筒からわずかな水滴を口に垂らして、灼熱の太陽、ヨハネスの頭上から降り注ぐ恒星の冷酷なエネルギーを受け、地平線に人影のない砂漠を、駱駝という唯一の生命とともに、目的地へ急いだ。
 ノワールの声がしていた。だんだん、ノワールの声が近づいていた。岩陰で、熱さと渇きでまいっている。ハンナに一昨日の晩に話ができたこと。それを聞いて、ヨハネスは安心した。
 果たして、五キロほど行ったところの、岩ばかりの、灌木の日蔭にノワールは、丸くなっていた。ヨハネスは、水筒の水を布に浸して、ノワールの口元へ差し伸べた。ノワールは舌で、布を舐めて、水分を補給した。しばらく無言だったノワールがようやく、一息ついたので、現在地からハンナのいた場所と、これからヨハネスが向かう場所とは、方向が違うことを教えられた。おそらくは、無人の廃墟での取引ということなのだろう。
 ノワールに、袋の中に身体を入れてもらい、肩から提げて、駱駝に乗って、取引場所へ急いだ。道々、ヨハネスはニーチェの遺稿の話をノワールに説明した。
 ノワールは、ヨハネスの話を聞くと、人間というのは、文字の書かれたもの、パピルスを発見してからというもの、書かれたものに対して随分とご執心な歴史が続いたものだ、と感想を漏らしたが、疲れているためか、ほとんど無口な猫のままだった。
 果たして、地平線の彼方に、廃墟らしきレンガ造りの建物群が見えてきた。
 駱駝を降りると、地面の温度を両足に感じた。建物の影から、人影が四人現れた。エリーザベトと<ねずみ>、あとの二人はアラブ人の男性で、二人の前に、ハンナがリュックサックを背負って、立っていた。ヨハネスの顔をみると、両手を胸の前で組み合わせ、口を開けて見つめてきた。ヨハネスは、ハンナに手を振った。
「牧師さん、こんな所までご足労をかけて申し訳なかったわね。早くすませてしまいましょうよ」エリーザベトが<ねずみ>に頷くと、<ねずみ>はヨハネスのほうへ歩き出した。ヨハネスは、とにかくも、遺稿の入った紙袋を掲げて振ってみせた。
 今いる場所は、シンとなった空間と時間との交差した点であった。
 そのとき、「あっ」という声がした。それに続いて、ヨハネスの名前を呼ぶ、聞き慣れない声、子供の声がした。みると、ハンナが駆け出していた。ハンナの声?とヨハネスはアラブ人ふたりが立っていた方角をみた。しかし、そのときに、<ねずみ>も立ち止まっていた。
 突然、視界が遮られた。それが砂による遮蔽だと知覚し、認識する暇はなかった。眼をつむり、腕で、本能的に、顔を覆った。ノワールの声が、ヨハネスの胸にぶら下げた鞄からした。それは猫の声というより、獅子の声に近かっただろうか。ノワールの声が遠ざかるのを感じたとき、それが肩紐が切れたことによるのだと、気づくこともできなかった。
 そしてーー。

 そしてーーヨハネスは、もはや語り得ない世界へと連れてゆかれたのだ。
 誰に?
 勿論、ツァラトゥストラにだ。