第十四回

第一回
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 灼熱の太陽が照りつける下を、駱駝に乗って、砂と日光から肌を守るために、顔に木綿のスカーフを巻いて、ひたすら進んだ。水筒を四つ、後はニーチェの遺稿を入れた麻袋だけ。長袖の木綿のシャツは汗まみれだが、すぐに乾燥してしまう。ズボンの下も同じだ。
慣れない駱駝の上で、腰も尻も痛んでいた。
 ヨハネスは、サハラの辺境にある、エリーザベトから指定された、廃墟を目指していた。廃墟には、ハンナが待っている。ノワールは、ノワールの声が、途切れがちだが、ヨハネスの心へ届いていた。ノワールの声を頼りに、ここまで来たのだ。見渡す限りの砂、遠くにときどき、岩や数本の低木が、思い出したようにあるだけだ。

 もう、四日も前のことになる。
 アルジェリアへ到着し、宿にハンナとノワールを残して、ヨハネスは買い物に出かけた。下着や汽車の旅のため、食糧を買いに、市場を巡っていた。アラビア人が多い街だ。後は、ユダヤ人。そしてフランスからの移植者達。白人だ。店にはアラビア人の商人が多い。店先では、客と売り子の間で気長に、値切ったりしている風景が見える。地面に座りこんでいる老人同士が、手を上にあげたり、下におろしたり。天秤のように交渉しているのだろう。アラビア語やベルベル語が飛び交い、狭い土地に人口が密集している。混沌とした人々の熱気と無気力さ、フランス人に支配されているアラブ人達の欲求不満や、一儲けを企むユダヤ人達。イスラム教とキリスト教。ターバン。アラブ。駱駝。
 初めて見る異国の風景、異人種の珍しさに、アルジェリアに来たんだという感慨にひたりながら、両手に紙袋や新聞紙にくるんだ食べ物と、肘にぶら下げた布袋に下着を詰めて、宿へ戻った。
 ドアをノックしたら、後ろから手が伸びてきて、口を塞がれた。振り向く間もなく扉が開き、部屋の中へ押し込まれた。籐椅子にはエリーザベトが座って、煙管で煙草を吸っていた。ようやく口から手が離れ、エリーザベトの前まで、背中を押され、手に持っていた紙袋が床の上に落ち、くだものがいくつか転がり出た。
 <ねずみ>がいた。手には凶器はなかったが、左手にはまだ包帯が巻かれていた。エリーザベトはゆっくりと鼻から煙を吹き出し、「ごきげんよう」と言った。
 部屋の中を見回したが、ハンナもノワールの姿もなかった。ハンナに危害は無かったのだろうか。突然の事態に、ヨハネスは思考が麻痺してしまった。エリーザベトの声が、歪んだ空間の中に、拡散してゆくようだった。
「スペインの汽車の旅は楽しかったわ。わたくしの、今は亡き夫の、情報網と同士達は、ヨーロッパ中にいるのよ。わたくしから逃れる術は、ただひとつ。わたくしの兄の遺稿を渡すこと以外にはないのよ。よくわかって。いずれ、ガストを呼び寄せて、判読するつもりなの。だから、おいぼれオーヴァーベックのやろうとしている事は無駄なこと。遠回りをしているだけ。おわかり。牧師さん、あなたの、可愛いお嬢ちゃんに会いたかったら、遺稿を持ってらっしゃい」
「ハンナはどこだ」
「あの子は無事に保護しているわ。遺稿と交換よ。こんな姑息な手はわたくしのやり方にはなかった事だけど。事は急いでいるのよ。おわかり」 
「ハンナには関係のないことだ」
「あなたが、牧師さん、あなたが関わったことよ。よくって。あのお嬢ちゃんに不幸をもたらしたのは、あなたよ、牧師さん」
「ぼくの知っていることは、あなたは、エリーザベト・フェルスター=ニーチェさん、あなたのお兄さんの遺稿を奪い、破棄することで、フリードリヒ・ニーチェの思想を捏造しようとしていると聞いている。あなたの亡き夫である、フェルスターの、反ユダヤ主義の思想を、お兄さん、フリードリヒ・ニーチェの思想と混ぜ合わせ、お兄さんが、ほんとうに言いたかったこと、人々へ伝えたかったことを、ねじ曲げようとしていると、ぼくは聞いている」
 ふん、とエリーザベトは鼻息を荒く吐き出してから、煙管で籐椅子の肘掛けを叩いて、灰を床に散乱させた。灰が霧のように、ゆっくりと舞いながら、床へ降りてゆく。
「ごたくはたくさん。皆で、わたくしと兄の関係がよくなかっただの、わたくしが兄の思想を全く理解していないなどと。狂気に取り憑かれた兄を、毎日、兄の最後の日まで看病したのは、このわたくしよ。子供の頃から、兄のことを、誰よりもよく知っているのは、このわたくしよ。わたくし以外に誰が、兄の思想を世に正しい姿で公開できるというの。誰もかれもわたくしを、フリードリヒ・ニーチェの妹を、過小に評価してるんだわ。とにかく、ごたくはたくさん。もう、たくさん。交渉の余地などないということを、牧師さん、よく理解することね。神などいないということもよく理解することね。以上よ」
 エリーザベトは立ち上がった。<ねずみ>は、紙片を床に落とした。二人は部屋を出て行った。ヨハネスは、紙片を拾い上げた。紙片にはこうあった。
『アルジェリアとモロッコの境界近くの、サハラのはずれの廃墟の街、かつて、カハスと呼ばれた地があるわ。その廃墟へ、遺稿を持って来てちょうだい。あなたの可愛いお嬢ちゃんは無事よ。あなたさえ、裏切らなければね。ただし、猶予は五日だけ。がんばりなさい。
      エリーザベト』
 紙片を握りしめて、ヨハネスはいつまでも立ち尽くしていた。宿の窓の外には、どこまでも澄んだ空と灼熱の陽の光が暖めた空間が拡がっていた。

(次回へ)