第十三回

第一回
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 マルセイユから船出してから、ずっとヨハネスは船酔いに悩まされた。ウイスキーの小瓶を数本、スーツケースに忍ばせて、ハンナやノワールを自由に歩き廻らせ、自分は三等個室の二段ベッドの下で、ウイスキーの酔いと船に揺られることからの酔いの、二つの酔いの間をメトロノームのように、行ったり来たりしていた。個室には幸いといおうか、窓が無いのがよかった。窓から波を見るともうだめだろう。
 途中、バルセロナに寄港したが、下船しなかった。例のエリーザベトがイベリア半島にいるので、油断ができない。エリーザベト達はハンナの顔を知らないはずだが、ノワールとヨハネスの顔を知っているので、用心して下船を控えた。
 出航するときは、船の甲板から陸から上がる階段を見張り、エリーザベトや<ねずみ>がいないか、見張っていた。甲板には、大勢の人間達がやはり名残惜しげに陸を見たり、これから始まる船旅へ思いを馳せているのか、海を眺めながら、楽しげに会話する者達もいた。
 結局、乗船客には、エリーザベトや<ねずみ>はいなかったと確信したが、なにせ、船酔いと酒酔いの間にあるので、はっきりしない。一緒に見張っていた、間違いなく、ヨハネスよりも視力も知覚も冱えたノワールに聞いてみたが、欠伸しながら、ハンナと歩き回ったときもいなかったし、今度もそれらしきヤツは見かけなかったよ。それにしても、何かあるのかい、とノワールは聞いてきた。「いずれ詳しい事はアルジェリアに着いてから話そう」とヨハネスはノワールに約束した。
 船旅の疲れを取る為に、マヨルカ島で一泊することにした。ハンナは筆談で、《この島にはショパンが訪れたことがある》と、輝いた顔をして、ピアノを弾くジェスチャーをしてみせた。ハンナはピアノの演奏が好きだということを知った。ぼくの母は音楽の教師をしていたんだと教えてやった。母に教えられて、ピアノを弾けるようになったんだ。教会では、オルガンの演奏もするんだ。ヨハネスがハンナにそんな話をしてあげると、とても喜んだ顔で、両手を胸の上で組み合わせ、しきりに頷いた。こんなとき、声を出せないことは、つらいことなんだろうと、つくづく思いながらも、今度、どこかでいっしょに演奏をしようとハンナと約束した。
 マヨルカ島は、鳥がたくさんいる、海に面した、休養で過ごすにはとてもよい土地だった。船酔いと酒酔いで少しふらつく足で、島のはずれの宿までゆき、予約をとった。スーツケースに振り回される感じがしながらも、海が見えるコテージ風のバンガローに、なんとかたどり着いた。ハンナとノワールは、海辺へ散歩へ出かけ、ヨハネスはハンモックを作ってもらって、とにかくも、酔いを醒ますことに努めた。
 まず、計画の第一段階である、マルセイユの近郊、ラ・シオタで、ニーチェの遺稿の写真を撮影できた。当初からの目的地ではあるが、第三者には映画を観に行ったとしか映らなかっただろう。郵便局留めというアイディアを思いつき、しかも、移動の間、点々と郵便局留めにしておけば、ヨハネスの次の目的地を知らなければ、また、複数の郵便局があれば、敵には分からないのだ。そして、写真とオリジナルを別々の場所、オリジナルは郵便局、そして写真のほう、保険となる写真は、ある別の宛先へ、おそらくはエリーザベトには分からない場所へと送ったのだ。
 翌朝、鳥達の声に送られて、一路、アルジェリアへ、いよいよ、アフリカ大陸の北端へと向かった。マヨルカ島は九月だというのに、まだ夏のような陽気だった。

(次回へ)