第一部 山人って何? 29回


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 空には雲がなく、暖かい陽射しが地面を歩く蟻達に注いでいる。北川は、ベンチに座り、忙しそうに歩き回る蟻達を眺めていた。池の淵にはカキツバタが咲き、花壇には赤、黄、青のバラやチューリップが咲いている。足下のタンポポの根元で、蟻達は右往左往しながら、獲物を探しているのだろう。イヤフォンからはAちゃんの曲が流れている。蟻は俺たちなんだ、と心の中でつぶやいてみた。
 あの日、「ハナミズキ」で歌った夜、テトラ学園の職員ふたりと大根泥棒の被害者である花田の三人と一緒に店を出たのだった。店の前でテトラ学園の職員たちと別れ、花田とふたりで歩き出した。花田は千鳥足で歩き、しらふの北川は、月の明かりと夜目に慣れているため、さっさと歩けた。花田はしきりに、「ハナミズキ」のママはいいをんなだと繰り返し、下品な笑い声を間に入れながら、ああいうタイプのをんなはこうゆう、ああいうよがり声を出すはずだ。大阪の郭にもああいうタイプの娼婦が何人かいて、夜な夜なよがらせたもんですよ、などとひとりでをんなの話ばかり続けていた。少しろれつのまわらない口調で、語尾が聞き取れないのだが、北川は、花田自身にも花田の性体験にも興味がなく、また、こんなにブレた野郎なんかどうでもよかったので、上の空で返事にならない返事をしていたような記憶がある。   
 店を出てから、花田の歩行速度に合わせて、ゆっくりと歩きながら、花田の性豪ばなしが続いていた。そのうちに最近、いいをんなができて、熊野でよく逢っているという話になった。花田は立ち止まり、電信柱に片手をつけて、自分のでかい身体を支えながら、熊野であうをんなの話をし始めたのだ。そのをんなとやがて、こんなところを出て、ふたりで暮らしたいんだ、と焦点のさだまらない眼で口走り始めた。北川が大丈夫ですかと声をかけたら、大丈夫、大丈夫、この話はうちのやつには内緒にしておいてくださいなどと言い、下卑た笑い声を上げた。北川は微笑みながら、ブレブレな野郎だと思いながら、また花田の身体が大きいので、昔、さんざん診察した牛とか馬とかヤギと同じ畜生の一種だと錯覚しそうになってしまった。まあ、畜生なみに節操のないやつだけれども。
 話が途切れた途端、花田は電柱に寄りかかったまま、いびきをかきはじめた。花田さんと声をかけ、ごつい肩を揺すぶりながら、風邪ひきますよ、と呼びかけて、花田の眼を覚まそうと試みた。花田は大丈夫、大丈夫とろれつのまわらない舌で、手を振りながら、眼を閉じたまま返事をする。そんなことを数回繰り返した後、花田はふらふらしながらも、ようやく電柱から離れて歩き始めた。花田の家の灯りが見える場所まで、北川も付き添っってやった。灯りの方向を指差し、もうすぐ家に着くことを告げて、花田が顔を上げああ、着きましたね、着きましたね、いや大丈夫、どうも今日はとんだところを、いやすみませんでした、などとろれつのまわらない舌で言いながら、フラフラと自宅の灯りのほうを目指して歩いていった。
 北川はしばらくたたずんで、花田の後ろ姿、ブレブレに歩く姿を見送っていた。やがて、遠くのシルエットが、花田の自宅の庭に入るところが見えた。思わず、けっと言ってしまった。「ハナミズキ」で気持ちよく歌った余韻が興ざめしてしまった北川は、花田の自宅と事件現場の近いことを思い出し、月明かりの下で、つまりは夜の現場を検証することにした。現場検証のイロハはよく知らないが、昔、獣医をしていた頃、家畜の状態は出来るだけ、発症状況の時間も考慮して診断する必要があるので、同じように、夜の現場をみたほうが、昼にみたときに見落としていたことに気づくかもしれないと思ったのだ。
 月明かりの下で、現場となる山頂から下を見下ろすと、ちょうど斜面の全貌、すなわち盗まれた大根の跡を、ひとめで見ることができる。斜面から直線をイメージして延長してゆくと、花田の自宅の方向へとつながることも分かった。つまり、望遠鏡があれば、この山を花田の家の二階から見ることができるわけだ。
 そして、山頂から斜面へ降りようと思ったときだった、何か背後で音がしたのだ。しかし、それが最後の記憶だった。振り向く暇もなく、頭に衝撃を受けたのだろう。後頭部の傷を、指でそっと触れてみようと思ったが、まだ完治していないので、触れるのをやめた。十二針。傷は大きかった。打撲によるもの、凶器は鈍器状のものらしい。
 今日の午前中、野次と警察の刑事が事情聴取にやってきたのだ。野次は嬉しそうな顔で、見舞いの果物を、北川の女房へ渡しながら、しばらく休んでてくれ、事件のほうはようやく目処がついてきたと言った。だいぶ歩けるようになった北川は、同室の眼もあるので、病院の庭のほうへ、杖をつきながら野次とレインコート姿のコロンボ警部を誘った。コロンボは、ゆで卵と水筒を持ちながら、バラの花壇のそばにあるベンチを指差し、あそこにしましょうかといい、北川の隣に一緒に腰掛けながら、あさめしがまだなんでと微笑みながら、やぶにらみの眼で、病院の庭をまぶしそうに見渡していた。紙袋に、ゆで卵の殻を入れながら、コーヒーどうですかと北川に聞いたが、薬を飲んでいるのでと断った。「あ、コリャ失礼、あたしとしたことが、けが人にコーヒーなんて毒でした。ごめんなさいね」
 野次が立ったまま、現在の状況を話してくれた。コロンボは、ゆで卵を食べたり、水筒のコップでコーヒーをまずそうに飲みながら、ときどき、相槌をうったり、コメントを入れた。そして、北川の話、あの夜に起こった話を聞いてくれた。ところどころ、コロンボに質問され、だんだんと鮮明に記憶が戻ってきた。
 一通り話しを聞いたコロンボは、それでも、まだ犯行の動機がハッキリしないといった。凶器は鈍器状のものだが、現場付近でも発見されていない。
 驚いたことに、花田は実は、大根をテトラ学園に売っていて、窃盗自体はでっち上げではないかという疑いがでてきたのだ。ただ、何のために窃盗だと届け出たのかはまだ不明で、しかも、花田は昨日から失踪してしまったという。テトラ学園の校長や教頭は、花田の行方は知らないらしい。また、花田の妻は花田から何も聞いていないという。さらに、柴山京子も、店を閉めていて、行方が分からないという。
 酔っぱらった花田が言っていた女というのが、柴山京子であることは十中八九間違いないだろうと、コロンボは言う。すると、逃避行がついに実施されたのであろう。しかし、何処へ?
 今になっても、何一つ、分からないことだらけであることには変わりはなかったのだ。
(次回へとつづく)




アリよさらば