「南回帰線」には、これといった構成はない。

あえて言えば、「間奏曲」An interludeと「終楽章」codaを含め、三部構成といえる。

つまり、楽曲、音楽なのだ。

ミラーは音楽に合わせて、歌をうたい、
混沌の土壌の上で踊る。

「カオスからは<環境>と<リズム>が生まれる。」
(「千のプラトー 中」 ドゥルーズ/ガタリ 
  宇野、小沢、田中、豊崎、宮林、守中訳
  河出文庫)

パリにいた頃、ミラーはプルーストの「失われた時を求めて」
を読んでいた。(ニンの日記より)

膨大なテクストである「失われた時を求めて」を、
私自身まだ、わずかしか読んでいないが、
<文学機械>(ドゥルーズ)としてのプルーストの
シーニュ、記号がそこかしこに、増殖している。

マドレーヌの香りから、(マドレーヌは朝に焼きたて
のものを食べるのが昔のフランスの習慣だった)
膨大な記憶というより、ドゥルーズによれば、
記号が生まれ、連関してゆく。

ミラーの場合の混沌とはどんなものだったろうか。

コズモデモニック電信会社。

ミラーの物語は、この電報配達サービス会社
(1920年代の話)に雇われるところから
始まる。

「出勤した瞬間から、ハチの巣をつついたような騒ぎが
ひっきりなしにつづく。
 ぼくが出社する一時間も前から--ぼくは遅刻の常習犯
だった--もう事務所は応募者で押し合いへし合いだった。
人ごみを肘でかき分け階段を上り、文字通り力ずくでないと、
デスクにたどり着くことができなかった。」
(参考文献①)

「三年間というもの、ほとんど寝ないで働いた。
満足なシャツ一枚ももたず、朝、仕事に行く電車賃
を妻から借りたり子どもの貯金箱からくすねたり
するのも気がひけて、地下鉄駅の盲目の新聞売りから
失敬したことも一度や二度ではない。
あたりかまわず借りた金はそうとうな額に
のぼり、このまま二十年も勤めていたら、
とても返済しきれなかったことだろう。
ぼくは金のある連中から借り、困っている
連中にあたえたのであり、これは正しいこと
だったし、同じ状況にあったら、また
同じことを繰りかえすだろう。」
(参考文献①)

何かが存在するということはない。
すべては移ろいゆくもの。

ホワイトヘッドの「過程と実在」は
ミラーの哲学を整理したかのよう。

職場の同僚ハイミー。
ユダヤ人、ひきがえる。
ハイミーの妻は卵巣を患っている。
サブタイトルの「卵巣の市電にのって」は、
ハイミーの奥さんに関連している。

トマス・ピンチョンも猥雑さでは有名だが、
ミラーの場合、もっと、直接的だ。

しかし、芸術的、哲学的な気分がする。
「ひとたびペニスが思考をはじめると
停止も傷害もあったものではない。
それははてしなくつづく休日であり、エサは新鮮で、
魚はいつも釣り糸に食らいついてくる。
それで思い出したのはもうひとりの女で、
ヴェロニカ何とかいう名前だったが、
彼女とお手合わせすると、ほくの思考は
いつもあらぬ方向へ逸れていった。
毎回、ヴェロニカとは入り口の間で苦戦を
しいられた。ダンスフロアでは、
あたしの卵巣は永遠にあなたのものよ、
みたいな態度だったくせに、
いざコトにおよぶと、とたんに彼女は
いろいろなことを考えはじめた、
帽子のこと、ハンドバッグのこと、
寝ずに待っている叔母のこと、
ポストに入れ忘れた手紙のこと、
失いそうな職のこと」
(参考文献①)
「いわば形而上学的なワギナだった。
それはさまざまな問題を考えぬくワギナであり、
しかもメトロノームの動きに合わせて
特異な思考をおこなうワギナだったのだ。」
(参考文献①)

ミラーにとって、性は生きることの一部であり、
道徳家達が隠したがる猥雑なものではない。
ミラー以前に、闇の中に隠されていた、
サーカス小屋の奥の暗闇が、
ミラーによって、明るく美しい光に照らしだされたのだ。

ミラー以前には、ロレンスがいたのだが。

ロレンスとミラーの違いは何か?

ロレンスの場合には女性の視点があり、
性のパートナーたる女性が、
開放へと歩むプロセスとなっている。

ミラーの場合には、一種の男根主義と
とられかねないものがそこにはある。

だが、それはちょっと違うのだ。

ちょっとの違い。その差異を考えるのは、
次回へと譲ることにしよう。

参考文献と引用
①ヘンリー・ミラー「南回帰線」松田憲次郎訳 水声社
②Henry Miller Tropic of Capricorn Grove Press