僕が韓国の野球を知ったのは、とあるきっかけからだった。
その男は和歌山県みなべ町の卓が2つしかない、小さい雀荘のソファーの上で死亡しているのが発見された。
雀荘の壁には自分の死が近いことを予感していたのか、表題の字句が書き残されていたという。
享年55歳、この世を去るにはあまりにも早すぎるし、僕も訃報を聞いたときは大変なショックを受けた。
入団初年である1983年、33歳のルーキーである彼は100試合のうち60試合に登板、30勝(16敗6セーブ)という驚異的な記録を打ちたてて韓国の野球界を驚かせた。
彼が立てた上記のシーズン最多勝記録の他にも、最多先発(44試合)、最多投球回(427回と3分の1)、最多完投(36)などの記録は20年以上経過した現在でも未だ破られないでいるし、これからも破られることはない、永遠に不滅な記録である。
前年度のシーズンチーム勝率が1割台という悲惨な成績だった三美スーパースターズを、なにしろたった一人で優勝争いが出来るチームにした彼は、間違いなく本物のスーパースターだった。
しかしながら、さしもの彼も度を越えた登板過多が祟ったのか、翌年からはひと並みの成績しか挙げられず、韓国プロ球界初の1億ウォン台という高年俸がネックとなって、86年に新興球団ピングレに移籍。
その年1勝を挙げながらも18敗という極端な不成績を残した後、マウンドを去る。
4年間通算55勝18セーブ、防御率3.55。
現役引退後は三星の二軍投手コーチ、韓国ロッテの投手コーチなどを務めたが、91年に覚醒剤を使用したことが発覚して韓国野球界から永久除名されてしまった。
朝鮮日報の記事によると、韓国プロ野球の球団であるSKワイバーンズが2004年、かつての三美の本拠地である仁川球場での開幕戦を迎えるにあたり、彼を招待する計画を立てたが、連絡を取ろうにも韓国の野球関係者の誰もが所在を知らなかった。
SKは1年かけて彼の居場所を突き止め、やっとのことで電話で話をすることに成功したものの、彼は少し間をおいてひと言「私を憶えていてくれたのはありがたいが、個人的な事情で韓国に戻れる状況ではない」とだけ返事したという。
当時は「彼がタクシーの運転手をしている」という噂も流れ、その人生の浮き沈みが韓国の野球ファンの間で話題となったそうだ。
80年代末には妻と離婚、投機話の詐欺に遇い韓国で稼ぎ出した金のほとんどを失うと、さらには他人の借金の保証人のかたで広島にあった自宅を手放すはめになり、晩年は実母宅であるこの雀荘に身を寄せていたらしい。
不運、という言葉だけでは言い表せない、野球と離れてからの不器用な生き方が見え隠れして、切ないものがある。
「落ち葉は秋風を恨まない」という言葉が胸に迫り、彼のその心中を思うと涙がこぼれる。
インコースのまったく同じ所に直球を3球投げてバッターを三振に斬って取り、にやりと笑う彼。
鳥取西高という進学校の出身で「野球をやらずに勉強をやっていたら東大に行っていた」という関係者の逸話も残っているほどピッチングはクレバーであり、打者は「今度こそは外に外すだろう」と深読みして打ち取られ、天を仰いで憤慨する。
特に速い球があるわけではなく、ヒットはいくらでも打てるのに彼からはなかなか点が取れないことで、それまでの速い球を投げ、ただ遠くへ打ち返せばいいという韓国球界の価値観を徹底的に破壊した。
特有の余裕ある微笑でファンから「たぬき」というニックネームをもらった彼は、バッターたちを手玉に取る心理戦の達人でもあった。
その一見ふてぶてしくみえる投球術とうらはらに繊細な一面を持った投手である彼を打ち込むために、打者は闘志を燃やし、投手は闘争心を剥き出しにして彼に挑みかかった。
そのことで韓国のプロ野球界に何人かの若いスター選手が生まれたことは紛れも無い事実である。
草創期の韓国プロ野球界にあって、「自分のいる場所の価値を少しでも高めたい」という彼の前向きな欲求は、過度の自己主張が馴染まないといわれる韓国社会で 多くの文化的摩擦も引き起こしたために、決してスマートなやり方では無かったのではあるが、彼の存在によって韓国の野球界も何かを学び、確実に成長したと いえるであろう。
結局は彼が去ったあとになって、その真価が発見されたのだ。
少なくても人生で何かを残した彼の功績に比べると、あまりにもその評価が低く、あまりにも残念な結末であったと思う。
・・・本を読んで彼の存在を知らなければここまで野球にのめり込むことも無かっただろうし、韓国人とチームを組む、なんてことも無かっただろう。
それぐらい僕の人生に影響を与えた男、彼の名前は張明夫。
そしてまたの名を、巨人・南海・広島で活躍した福士明夫ともいう。
雀荘の壁には、他にも「無二一投」などと書き込まれていたそうだが、最期の最期まで野球を愛して、だけどそれを自分のなかで抑えこんでいたんだと思うと哀しくてならない。
彼が背負っていたもの、そして闘ってきたものをわずかながらも知る者のひとりとして、たとえ時代の流れの中でみんなが忘れ去ったとしても、僕だけは彼の投げた魂のこもったボールを一生忘れない。
野球選手としてのみならず、また同じ男としても、今でも彼を心から尊敬している。
すべてのきっかけは、一冊の本だった。
・・・とこの話には実は続きがあって、張明夫選手の息子さんとお話をする機会があったんです。
それはまた後日。
その男は和歌山県みなべ町の卓が2つしかない、小さい雀荘のソファーの上で死亡しているのが発見された。
雀荘の壁には自分の死が近いことを予感していたのか、表題の字句が書き残されていたという。
享年55歳、この世を去るにはあまりにも早すぎるし、僕も訃報を聞いたときは大変なショックを受けた。
入団初年である1983年、33歳のルーキーである彼は100試合のうち60試合に登板、30勝(16敗6セーブ)という驚異的な記録を打ちたてて韓国の野球界を驚かせた。
彼が立てた上記のシーズン最多勝記録の他にも、最多先発(44試合)、最多投球回(427回と3分の1)、最多完投(36)などの記録は20年以上経過した現在でも未だ破られないでいるし、これからも破られることはない、永遠に不滅な記録である。
前年度のシーズンチーム勝率が1割台という悲惨な成績だった三美スーパースターズを、なにしろたった一人で優勝争いが出来るチームにした彼は、間違いなく本物のスーパースターだった。
しかしながら、さしもの彼も度を越えた登板過多が祟ったのか、翌年からはひと並みの成績しか挙げられず、韓国プロ球界初の1億ウォン台という高年俸がネックとなって、86年に新興球団ピングレに移籍。
その年1勝を挙げながらも18敗という極端な不成績を残した後、マウンドを去る。
4年間通算55勝18セーブ、防御率3.55。
現役引退後は三星の二軍投手コーチ、韓国ロッテの投手コーチなどを務めたが、91年に覚醒剤を使用したことが発覚して韓国野球界から永久除名されてしまった。
朝鮮日報の記事によると、韓国プロ野球の球団であるSKワイバーンズが2004年、かつての三美の本拠地である仁川球場での開幕戦を迎えるにあたり、彼を招待する計画を立てたが、連絡を取ろうにも韓国の野球関係者の誰もが所在を知らなかった。
SKは1年かけて彼の居場所を突き止め、やっとのことで電話で話をすることに成功したものの、彼は少し間をおいてひと言「私を憶えていてくれたのはありがたいが、個人的な事情で韓国に戻れる状況ではない」とだけ返事したという。
当時は「彼がタクシーの運転手をしている」という噂も流れ、その人生の浮き沈みが韓国の野球ファンの間で話題となったそうだ。
80年代末には妻と離婚、投機話の詐欺に遇い韓国で稼ぎ出した金のほとんどを失うと、さらには他人の借金の保証人のかたで広島にあった自宅を手放すはめになり、晩年は実母宅であるこの雀荘に身を寄せていたらしい。
不運、という言葉だけでは言い表せない、野球と離れてからの不器用な生き方が見え隠れして、切ないものがある。
「落ち葉は秋風を恨まない」という言葉が胸に迫り、彼のその心中を思うと涙がこぼれる。
インコースのまったく同じ所に直球を3球投げてバッターを三振に斬って取り、にやりと笑う彼。
鳥取西高という進学校の出身で「野球をやらずに勉強をやっていたら東大に行っていた」という関係者の逸話も残っているほどピッチングはクレバーであり、打者は「今度こそは外に外すだろう」と深読みして打ち取られ、天を仰いで憤慨する。
特に速い球があるわけではなく、ヒットはいくらでも打てるのに彼からはなかなか点が取れないことで、それまでの速い球を投げ、ただ遠くへ打ち返せばいいという韓国球界の価値観を徹底的に破壊した。
特有の余裕ある微笑でファンから「たぬき」というニックネームをもらった彼は、バッターたちを手玉に取る心理戦の達人でもあった。
その一見ふてぶてしくみえる投球術とうらはらに繊細な一面を持った投手である彼を打ち込むために、打者は闘志を燃やし、投手は闘争心を剥き出しにして彼に挑みかかった。
そのことで韓国のプロ野球界に何人かの若いスター選手が生まれたことは紛れも無い事実である。
草創期の韓国プロ野球界にあって、「自分のいる場所の価値を少しでも高めたい」という彼の前向きな欲求は、過度の自己主張が馴染まないといわれる韓国社会で 多くの文化的摩擦も引き起こしたために、決してスマートなやり方では無かったのではあるが、彼の存在によって韓国の野球界も何かを学び、確実に成長したと いえるであろう。
結局は彼が去ったあとになって、その真価が発見されたのだ。
少なくても人生で何かを残した彼の功績に比べると、あまりにもその評価が低く、あまりにも残念な結末であったと思う。
・・・本を読んで彼の存在を知らなければここまで野球にのめり込むことも無かっただろうし、韓国人とチームを組む、なんてことも無かっただろう。
それぐらい僕の人生に影響を与えた男、彼の名前は張明夫。
そしてまたの名を、巨人・南海・広島で活躍した福士明夫ともいう。
雀荘の壁には、他にも「無二一投」などと書き込まれていたそうだが、最期の最期まで野球を愛して、だけどそれを自分のなかで抑えこんでいたんだと思うと哀しくてならない。
彼が背負っていたもの、そして闘ってきたものをわずかながらも知る者のひとりとして、たとえ時代の流れの中でみんなが忘れ去ったとしても、僕だけは彼の投げた魂のこもったボールを一生忘れない。
野球選手としてのみならず、また同じ男としても、今でも彼を心から尊敬している。
すべてのきっかけは、一冊の本だった。
・・・とこの話には実は続きがあって、張明夫選手の息子さんとお話をする機会があったんです。
それはまた後日。