今、アマゾンプライムで見られる「マグニフィセント・セブン」という西部劇の映画があります。

 

以下、wikipedia より。 

 

 

 

 

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『マグニフィセント・セブン』(The Magnificent Seven)は、2016年のアメリカ合衆国のウエスタン・アクション映画。監督はアントワーン・フークア、脚本はニック・ピゾラット(英語版)とリチャード・ウェンク。1954年の日本映画『七人の侍』を基にした1960年の西部劇映画『荒野の七人』のリメイクであり[5]、デンゼル・ワシントン、クリス・プラット、イーサン・ホーク、ヴィンセント・ドノフリオ、イ・ビョンホン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、マーティン・センズメアー(英語版)、ヘイリー・ベネット、ピーター・サースガードらが出演する。

 

 

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『七人の侍』も、『荒野の七人』も、見てるはずなんだけど、まったく記憶になく。。。w

 

(でも『七人の侍』は、若い時にみて(リアルタイムじゃないですYO)、すごくおもしろかった記憶はあります。)

 

デンゼル・ワシントンとか、イーサン・ホークが全盛期だったころに、めっちゃカッコイイ(*'▽')! と思っていた私にとって、この映画は明らかに世代交代( ;∀;) を目の当たりにした映画でした(彼らが、今のクリス・プラット ぐらいのお兄ちゃんだったときに、いっぱい映画見てたからなー)

 

この「マグニフィセント・セブン」。

 

めっさわかりやすい勧善懲悪のストーリーなんです。

 

悪者に虐げられた村人たちが、7人のガンマンたちのリーダーシップのもと、乗っ取ろうとしてくる悪者集団に立ち向かう・・・というお話です。 まさに対決の前夜、という場面で、

 

 

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」

 

 

という、マタイの福音書の中にあるイエスの有名な言葉(らしい)を村人などが数人で唱えるんですよね。

 

 

ざっくり調べてみたところ、聖書のこの言葉が意味する事柄としては、教会に集う重要さとか、隣人と力を合わせること、理解しあうこと、もしくは、ひとりの願いより、2人、3人の祈りのほうが神に聞き入れられること・・・などといったものがあるようです。

 

 

奇跡講座的に言うと(もしかしてテキストなどに、引用されているのでしょうか。知っている人がいたら教えてください(*´ω`*))、やっぱりこれは「投影」のことをいっているのではないかと・・・。

 

(映画のプロットと、まったくそぐわなくなってしまいますがw)

 

ワプニック博士の解説などによると、私たちは自分の罪悪感(=あらゆる否定的な感情)に耐え切れず、それを外に投影し、いわゆる「嫌な人」(悪者)を知覚しているわけです。

 

本当は、自分への「憎悪」がそれを作っているんですけど、あまりにそれが重すぎるので、「これは私のものではない」というふうに無意識にしまい込み、その代わり、「嫌な人」「イライラさせられる人」「自分を怖がらせる人」などあらゆる人を自分の周りに作り出しているわけです。 

 

 

そうすることで「悪いのは私ではない」と思えるからです。

 

 

で、奇跡講座では、そういう「もっとも扱いづらい」「自分を苦しめている」ひとこそ、重要であり、また、最終的には自分を「癒してくれる」ひとであるということなんですよね。

 

 

以下、JCIMサイト(「水に潜る者」ケネス・ワプニック)より。

 

 

 

 

 

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内側を見ることを恐れてはならない。自我は、あなたの内側ではすべてが罪悪で黒く染まっているとあなたに教え、そこを見ないようにと命じる。

 

その代わりに、兄弟たちに目を向け、彼らの中にその罪悪を見るようにと命じる。だが、あなたはこのようなことをすれば、盲目であり続けることになる。

 

なぜなら、闇の中に兄弟を見て、自分で彼らを闇の中に包み込んだことで彼らを有罪と見る者たちは、内なる光を正視できないほどに恐れているからである。

 

あなたの内には、あなたがそこにあると信じ、信を置いてきたものは存在しない。あなたの内に存在しているのは、があなたに対し抱いている完璧な信を示す聖なるしるしである。・・・・・・が完璧な無垢性があると知っているところに、あなたは罪悪を見ることができるだろうか。あなたは神の智識を否定することはできるが、それを変えることはできない。だから、があなたの中に置いた光を見なさい。そして、あなたがそこにあるだろうと恐れていたものは、愛と入れ替えられているということを学びなさい。(T-13.IX.8:1-7, 11-13)

 

 

そうして、私たちはついに、自分の心の奥深くへと潜っていきます。導き手であり安全の拠り所でもあるイエスの愛を傍らにして、私たちが自分の関わる様々な関係についての知覚を逆転させて、心の奥へと潜るとき、私たちはそこには本当に何もなかったと気づいて、感謝に溢れます。 恐れるべきものは何もなく、自分の身を守るために防衛の盾を向けるべき対象も存在していなかったということがわかるのです。

 

 

 

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