北朝鮮のクラスメイト


上海にある東華大学に
語学を学ぶために通っていたときのこと。

クラスメイトに北朝鮮のおじさんが
2人いたんです(40代前半くらいかな。
当時20代だったもので、、おじさん呼ばわり)。

左胸に金正日バッジをつけているのを
初めて見たときには、面食らいました。

おじさんたちの身分は分からないし
なぜ中国にいるかは聞いていません。

中国語を真面目に熱心に学んでいました。
クラスメイトとして
授業や様々な行事を共に過ごし
時にはみんなでご飯を食べて語りながら。

わたしの北朝鮮への観方は
あっさりと打ち砕かれました。

それまで、日本への敵対心は想像を絶していて
みんなコントロールされていて、
個人の感情表現もうすいのだろう、、、
とか思っていましたので。

でも、彼らは良く笑い、歌も大好きでカラオケ
マイクを握っては気持ちよく歌い離さず
挨拶も自らするような人たちでした。

政治について話すと
また印象は変わったかもしれません。
当時の日本の小泉首相の話は
北朝鮮人も韓国人も食いついていたように
思います。
複雑な思いを持っていることは伝わってきました。

でも、みんな互いに国や政治と個を分けて
マナーを守っていました。

それに、彼らは誰よりも気を配っていました。
クラスメイトに関心を持ち
よく声をかけたり助けたりしていました。

ある日、そのおじさんの1人が
「萩野、最近なんでそんなに楽しそうじゃない
んだ?以前のあなたは、もっと楽しそうに
元気に過ごしていただろう?」
と声をかけてきました。

そう、その時のわたしは妊娠初期で身体はだるく
上海の街や学校の周辺の臭気が気持ち悪くて
仕方なかったのです。

それを話すと
「そうだったのか!それは、おめでたいことだ。
体に気をつけて無理するな。
元気な子を産んでよ!」
みたいなことを満面の笑みで言ってくれたのを
よく覚えています。

集団へのイメージの偏り

私たちは、集団に名前をつけて
すべてを同じようにまとめて見がちです。
しかも、大抵は、自分が実際に見たり触れたり
していないようなことでも
画一的な情報に流されて
あたかも真実のように見てしまう目

いやいや、そもそも知らんでしょ。

中国人に対しても然り。

確かに、文化的背景から国民性はあるし
小さな頃から受けてきた
教育の影響は大きいでしょう。

でも
そこから個がどれだけ考え
様々な経験をしながら生きているか
は全く違うって当たり前のことです。

現代は情報が錯綜しています。
便利になり、私たちの暮らしには欠かせない。
情報を得ることは、生きる上で
自分を高めてくれることもあり
リスクを回避し守ることにもつながります。

でも、一方で
誰かの観方が集団の観方になり
それを正しいものとして疑わず
個を見なくなる危険性を含んでいることを
忘れてはいけません。

だからこそ
個人のリアリティをもった体験から何を感じ
どう考えたのかが大事だと思うのですニコニコ
わたし以外の同級生の、彼らの印象は
全く違うものですし
必ずしも好意的ではありませんでした。

まあ、わたしもとりわけ好意的に観ていた
というわけではなく
「しつこいなぁ。」とか
「本当に言ってんの?」とか思ってましたし
ただ北朝鮮のイメージが
あまりに偏っていたところから
「同じ人間だ」という
当たり前の前提に立っただけなのです。

後は、人をどう観るかは
みんな違う個が観ている世界だから違うに
きまっているし、そろえる必要はありません。

ちがいに驚き、知らなかったことを知るって
楽しくて好奇心でいっぱいになりますひらめき
自分の世界が広がっていくことを感じられるって
贅沢な楽しみ方だと思いませんか?

集団を捉えるときに
良い悪いを先にイメージづけしていることは
多々あります。

でも、その集団の何に
自分がひっかかっているのか。
それは
その人たちのどんな考えに
基づいているのか。
それを、その人自身はどう思って生きてるのか。
というところまで落としていかないと
そんな上っ面のペラッペラな話を
していても全く意味をなしませんもやもや

逆に、具体から抽象概念にあげたいのなら
実際にその集団の中で様々な人と触れ合い
その人たちの観方を知り
咀嚼していく必要があります。

だから、わたしは◯◯ってどう思う?
という漠然とした質問が苦手です。

例えば不登校ってどう思う?みたいな。
一概にこれ!と言えることは少なく
状況によって異なるとしかこたえられない。
例えば、、はいくらでも言えます。
わたしは物事を細分化する傾向があるため
複雑でやや面倒ですが
これがわたしなので、どうしようもない電球

《こたえはひとつじゃない。
今あなたが何を望んで何を観たいかで
目の前の現実を観ているんだ。》