
すっかりご無沙汰しておりますが、お元気ですか?ご無事ですか?
みなさまのご無事と平安をお祈りいたします。
大地震や火災が起きなくとも、すでに人はただ生きているだけで、いろいろと大変な目にあうものですが、そこに「自然災害」や「不自然災害」などの不条理が降りかかってくるとなれば、本当にやるせないとしか言いようがありません。
運よく何も降りかかってこなかった方としては、今ある平安に気づかされるとともに、大変な状況の方々に思いを馳せながらも、改めて目の前にある日常を大切に生きようと思うばかりです。
そして、
大きな地震があると、やはりどうしても311のときのことを思い出してしまいます。
当時、私が住んでいた地域は、もともと8つの村と、1つの町とが合併した地方になっていました。
あまりにも面積が広いので、場所によって被害状況には大きな差がありました。
家の中でいろいろなものが散乱した程度で済んだお宅から、完全に家ごと全壊してしまったお宅まで、本当にそれぞれ状況は違っていました。
しかし当時は、SNSやブログをやっている人が今ほど多くはなかったので、
「私が住む〇〇町は、大丈夫でした!ご心配なく!」
といった発信を誰かがすれば、それが町民代表の言葉のように受け止められていたと思います。
でも、もともと9つの町村が合併した広大な地方のため、決して「大丈夫」ではない人たちもいました。
そんな中、私が住んでいた地域は、中心街から遠く離れた地方の山間部の秘境で、全壊~半壊したお宅もあり、ライフラインがしばらく止まっていたことを役場でも把握しておらず、最後まで取り残された地域でした。
最初の大きな揺れから、電力が復旧したのは1週間が過ぎてからのことでした。
なので、「こちらは大丈夫です」と発信するための電源が、8日目までありませんでした。
断水はどれだけ続いたのか正確にはわかりませんでしたが(うちはそもそも水道を使っていなかったので)、近所のお宅ではしばらく井戸水を使っていたと思います。うちは、日頃から山の沢水でしたけど。
わが家ではその間、電気のない時間を過ごし、冷蔵庫の中に残っていた食材と庭で取れるものだけで過ごしました。
ぜんぜん大丈夫でした。
近所にスーパーもコンビニもない山奥で、一番近いスーパーまでは車で30分くらいかかるので、ガソリンの枯渇問題もあり、家にあるものを利用して過ごすのがベストな選択でした。
3月とはいえ、山間部はまだまだ寒く、地震直後には雪が降ったくらいなので、冷蔵庫の電源が切れても大丈夫でした。
ただ、家の前の電柱が傾くくらい揺れて、道路はひび割れを起こし、風呂場はその日から二度と使えなくなりましたが、家そのものが倒壊しなかったので、自分的には大丈夫でした。
ライフラインが全部止まっても、日ごろから山の沢水と薪の調理で慣れていたので、本当に大丈夫だったという面もありますし、そういうときってやたらアドレナリン的なものが出てるせいもあって、「ぜんぜん大丈夫」という感覚で過ごせていた部分もあったと思います。
おそらく、「もっともっと辛い思いをされている人たちがたくさんいらっしゃる中で、自分たちはこんなにいい状況だなんて、なんてありがたいんだろう」と状況を俯瞰して感謝する気持ちが、「ぜんぜん大丈夫」という感覚にさせてくれていたのかもしれません。
しかし、このとき、実際にはどれほどのことが起きていて、何があったのか?というのは、ぜんぜんわかっていませんでした。
8日目に停電が明けたとき、ようやく事態を理解し始めて、愕然としました。
そのとき、心をふり絞っても、これしか言葉が出てきませんでした。
あのとき、そんな一連の体験の中で、なんとも言えず心に残った出来事がありました。
些細なことのはずなのに、なんだかすごく私の心に残ったことがあったのです。
当時も、今と変わらず2つ折り携帯を使っていたわけですが、最初に大きな揺れがあった後は、辺りで電波が入らなくなりました。
しかし、少し歩いていくと、電波が入る地点があったので、どうしても連絡を取りたい場合はそこに行ってやっていました。
充電の残量も貴重でしたが、気をつけて使っていても、何日目かに電池が切れました。
やがて電力が復旧して、ようやく家族や親類とも十分に連絡が取れるようになると、都市部にお住まいのある知人からパソコンの方に一通のメールが入っているのに気が付きました。
そのメールに書かれていた内容とは、
「あなたが無事で大丈夫なことはもう分かっていますが、こちらは心配しているからメールください」といった文面。
なんとも絶妙にモヤモヤしてしまう、ななめ上のほうからのご配慮でした。
なぜ大丈夫なことが分かっているのか?
何をもって「あなたが大丈夫」と言っていて、どんなことを分かっているのか?
スピリチュアル的な千里眼なのか、それとも誰かのブログを読んだせいで「分かっている」という感じなのかはよく分かりませんでしたが、そんなに「分かっている」のにどのあたりのことが心配なのか?も分かりませんでした。
でも、よかれと思って送ってくださったのはわかります。
もしかしたら、テレビの報道を見ているうちに心が不安定になり、誰かしらに連絡を取ることで心の着地点のようなものを求めたのかもしれません。
ですがその時、それを読んだ瞬間、私はそれまで完全にコントロールし切れていたはずの、抑えていた何かが一気に噴き出してしまい、いきなり頭がプッツンしそうになりました。
昼夜を問わず余震が続く中で、昼も夜も電気が使えない日が続き、食べ物も減ってきて、風呂にも入れず、唯一の移動手段の車にはガソリンも入れられない。それでも気持ちを穏やかに保てていたはずの私の心は、その一通で急にかき乱され、次の瞬間こらえていた糸がプッツリ切れて、頭に血がのぼると同時に、なんだか無性にいろんなことが悔しくなってきて泣けてきたのを覚えています。
自分は「ぜんぜん大丈夫だ」と前向きに過ごしてきたはずなのに、「あなたが大丈夫なことくらい、こちらは分かっている」と言われて微妙に胸をえぐられたようになり、なんだか電気が通って便利になったあとの方が、いろいろな言葉や、起きた現実とはまた別の「ネット上の言葉の嵐」みたいなものによって、心の平安がおびやかされるときも多々ありました。
このような一件からも、はっきりと分かることがあります。
それは、
人間というのは、
誰もが例外なく
「超能力者」であるということ。
超・能力者なのです。
相手に指一本たりとも触れることなく、相手がしばらく立ち直れなくなるほどに、内側からやりこめることができるのです。
それは、言葉ひとつ、態度ひとつで。
相手の気持ちを。内側から微妙にえぐるようなことができてしまうのです。
実際に会う必要もなければ、顔を知っている必要さえないかもしれない。
今の時代、人を深く傷つけることも、浅く傷つけることも、本当に簡単にできてしまいます。
だけど。
その逆もまた、しかりなのです。
何気ない小さな優しさやぬくもりで、人の心にあたたかい灯りをともし、その人の人生を先々までずっと内側からささやかに勇気づけることだってできる。
実際、私が人生で忘れられないほど励まされた言葉、ベスト10を振り返るなら、その中のいくつかは実際にお会いしたことすらない・どんなお顔なのかも分からない方からもらった、あたたかい何かだったと思います。
だから、人はみな誰しも、「超・能力者」なのです。
指一本、触れることなく、
誰かを内側から傷つけることもできれば、
誰かを内側から癒したり、励ましたり、勇気づけたりすることもできる。
この超「能力」を、もっともっと素敵なことに使っていきたいと、いつも思うばかりです。
生きている間、生きている限り、
素敵なこと、優しいことに使っていきたい。
改めて、そう思います。

もちろん、私だってひどいことや厳しいことを言いたくなる瞬間もありますが、言う前には考えます。これを言って、明日もし自分が死んで、それが「最後の言葉」になってもいいか?と。そう考えたときに、むしろ言う必要があると思うと、正直に思ったことをそのまま言うことは多々あります。
それは私が、人にやさしくありたいと思うのと同じくらい、無意識に大切にしているポリシーかもしれません。
* * *
最後になりますが、今日はあわせてお伝えしておきたいことがあります。
しばらく翻訳動画やセルフケア情報のアップが滞っておりまして、応援してくださっていたみなさま、すごいごめんなさい
今、集中して、ひとつの作品に取り組んでいまして、それがもう少し時間がかかりそうです。
しかも、翻訳だけでなく、通常であれば出版社が複数の担当者をつけて仕上げるような編集・デザイン・その他の業務もぜんぶ一人でやっておりまして、まさかの斬新な事態。
なので、かなり時間がかかっているのですが、絶対にいいものを完成させる気迫でやっています。
以前このブログのどこかで「私は一生、自分のことを『翻訳家』だなんて名乗ることはないと思いますが・・・なんとかかんとか・・」といった話を書いたと思うのですが、前言撤回です。
自分としては、今までもかなり本気ではありましたが、それでも「翻訳家」ではなかった。ただ単に、偽パンデミックをきっかけに、はずみで始めたライフワークを実践しているという範囲でした。
しかし、今取り組んでいる作品のためにも、「自分が認めるレベルの翻訳家」まで、自分自身を一気に引き上げる必要があります。
これまでの人生では、まったく違うジャンルのことをやってきて、なんの修行も積んでいない自分が、いきなり世界最強の敵である「自分」という批判家を相手に、そいつが描く高い理想を成し遂げるには、それなりの覚悟と時間が必要です。
それで毎日、「スパルタ翻訳デザイン学校」に通っているんですけど。
まぁ、そこの校長は自分で、その学校は私の頭の中に存在しております。
自分にとっては、世界でいちばん厳しい学校です。
だから、とても信頼できます。
たぶん、翻訳家としては、まるで別人になってみなさまの前に帰ってくると思います。
機械翻訳が人間の脳を侵食し始めているこのAI時代で、生身の人間の底力を見せていかないとね。
なので、できあがる作品を、どうぞ楽しみにしていてください!
たぶん、いま取り組んでいる例の作品の価値が、本当の意味で日本で評価されるようになるのは、おそらく余裕で私が死んだあとになると思います。
でしょうから、焦って少しでも早く出そうとするよりも、手堅く誠実にやっていきたいと思っています。
(それでも、全力で急いではいるのですが、でもすっごい急いでいるのに、どういうわけか早くならないんですよね~、これが!‥)
***
最後になりますが、と言いながら、ぜんぜん最後になってなくてすみません。
あとひとつだけ。以前このブログで「私は一生、自分のことを『翻訳家』だなんて名乗ることはないと思いますが・・・」と自信満々で言っていた時の気持ちの、背後にあったものをここで言いたいと思います。
それは、ある人が言っていた言葉です。
昔、ある音響関係の専門学校に通っていたのですが。
そこの授業で、パーカッションの演奏を教えてもらえるカリキュラムのひとコマがありました。コンガとかですね。
で、そのパーカッションの先生が、プロの方だったと思うのですが、こう言っていたんです。
「みなさんは、プロにはなれないです。
もう遅いですから。話にならない。
10代後半から始めたって、ぜんぜん時間が足りないです。
今からやっても無駄です。
それでも、ある程度の演奏をしたいというなら、
起きている時間は全部コンガのことを考えてください。
歩いているときもです。歩きながらやってください」
‥とそう言って、授業内では歩くときの腕の振り方やイメトレのレクチャーが行われました。
授業内で、太鼓の打面などほぼ叩きません。歩くときのイメトレと腕の振り方の練習ばかりで、授業の最後にちょっと叩かせてもらえる程度。
その時のセンセーの言葉が、すごく説得力があって、私の心に深く残ったのです。
・みなさんはプロにはなれない。
・その年齢では、もう遅い。
・そもそも時間が足りない。
・そんなに甘くないですから。
・ほかのやりたいことを全部あきらめてこれだけやってもまだ間に合わない。
・やっても無理だけど、やるなら起きている時間をぜんぶ使うしかない。
と。
非常に説得力のある話で、「あぁ、本当にそうだろうな」と思いました。
でも、別に自分としてはコンガ奏者になりたかったわけじゃないので、「なれない」と言われてもどうでもよかったわけですが。
とにかく説得力があった。
その言葉を放ったご本人も、そのことを体現しておられるような演奏をする方でした。
しかし今、私は改めて思います。
その人の言っていたことは、正しい。
だけどね、
どうでもいいんです、そういうのは。
完全に関係ないんです。
やりたいことは、やるし、
やりたいと思うなら、ただやる。
それしかないと思います。
いつから何を始めてもいいんです。
人は、そんな「自分の本心が描く現実」を見るのに、いつもすこしだけ勇気がいる、それだけです。
私も、世の中に「翻訳家」という職業が「そういやあるんだな!」と気づいたとき、先ほどのパーカッションの先生の言葉をやたらと思い出し、自分の人生をとても残念に思いました。
「くそー、翻訳家っていう職業があったのか!」と。
「昔、気づいてたらなりたかったかも‥!」と。
「せめて自分がまだ20代や30代だったら‥!」と思いました。
「あぁ残念!中学生に戻れるのなら、死ぬほど英語を勉強するのにな!」と2分間くらい悔しがってから、「でも、さすがに来世じゃないと無理!」と思って、スッパリ諦めたのです。
そして、そんな風に思ったことすら綺麗さっぱり忘れて、ただ目の前にあることを一日一日やってきました。
すると、どうでしょう。
なんだか知らないけど今、自分がまったく予想もしなかったルートで、目の前に「翻訳家」というものが迫ってきています。
これぞ、奇想天外な展開。
夢のリアルは神出鬼没で、まるで野生動物のよう。
やりたいことを無心にやり続けていると、何かを叶えている自覚もないまま、気付いたらそうなっていることがあります。
人間は、「超!能力者」ですから、本来はいろいろなことが可能なのでしょう。
どうかみなさん、今日も自分のやりたい気持ちをおだいじに。
人はみな、自分をこの瞬間に内側から満たせる「超!能力」があります。
きっと日々、辛いこと、大変なことも多いことと思います。
でも、そんなときこそ、自分の心にあたたかな灯りをともしてみることを、ひとつずつやっていこう。
そうやって生きていけば、自然とそのバイブレーションが、誰かの心に灯りをともすことになるかもしれない。
自分という存在「一人」を照らすほどの小さな灯りは、決して小さな灯りではなく、必ずそれはあなたの外側にもあふれ出て、ときには希望になり、ときには癒しになり、ときには励みになり、ときには平安になります。
あなたの心の平安を、深くお祈りいたします。
また会う日まで、どうかお元気でいてくださいね!
今度は、猫の近況もアップしたいですね

Bio Sinfonia(Etsuko)
~元気が出るかもしれないBGMとかね!~