今日は、昨日のブログで書いていたように、大阪の息子のところから、奥さんと孫娘が家人のお見舞いに来てくれたので、私は案内を兼ねて渡すべき荷物を届けに病院へ行った。
ところが今日は、病棟の担当の看護師さんと私の間で、ちょっとした食い違いも生じてしまった。それはそれで、病院のルールだから仕方がない話には違いないのだけれど。
なんというか、見舞いに来る人に年齢制限があったのだ。注意書きには、人数制限が「2名程度」と書かれているが、「2名を厳守」と言われるので、これはもうあきらめた。
しかし、注意書きのどこにも書かれていないのだが、見舞いに来るのは、小学生以下はダメということらしい。孫娘は小学6年生だから、そこが問題視された。
幼児が病棟で声を張り上げて走り回ったりしたら、それは確かに迷惑だろう。だが、保護者同伴で小学校高学年の子どもが来た場合、そこは柔軟に対処しても良いと思うのだが。
まぁ、そんなことで言い合っていても始まらないので、孫娘と私は正面玄関の横にあるカフェで待っていることになった、という一幕があったのだ。
それにしても、何だか〝情状酌量〟の余地がないというのか、全体的にギスギスして、余裕が感じにくい社会になって来たな、とは思ってしまう。
もちろん〝情状酌量〟と言っても、差別的な言辞や不謹慎な言葉を投げかけるというのは、絶対に良いことではない。これらは、何があっても強く否定されるべきだ。
だから、〝ふわちゃん騒動〟が起きたとも言える。また〝言葉狩り〟になってしまうのも良くないけれど、人を〝見掛け〟で何かに例えるのも、失礼と言えば失礼な話かもしれない。
最近は、ルッキズム(見た目表現とでも訳すのか)という言い方で、人を〝見てくれ〟で評価したり、何かに例えたりすることは、良くないこととして否定されている。
昔話をしても仕方がないし、〝昔は良かったのだから、今も〟というのは、社会の価値観の変化で、許されなくなってきた。これが、現代という時代なのだから。
ドリフターズの高木ブーさんなどは、ご自分の見た目を芸名にまでしているのだけれど、こうしたことを〝是とするか、非とするか〟は、ご本人の問題には違いない。
その人自身が嫌だと思えば、それはダメなことになる。嫌だと思うかどうかは、外部からうかがい知れないから、そういう表現は、使わないことが正解なのだ。
私も小学生のころ、見た目で何となくひ弱な感じを与えたのだろうか、いわゆる〝あだ名〟なんだけど、一部の級友から、子ども心に気分の悪くなる言い方で呼ばれた時期があった。
今、思い返してみれば、これがルッキズムというものだったと思う。ただ、そんな言い方は広まることも無く、時期が来れば、子どもだから忘れて行くようなものだった。
もしこれが現代社会のように、SNSなどの表現手段で止めどなく拡散して行ったと仮定すれば、これはたまったものではないだろう。
だからこそ、差別的な言辞や不謹慎な言葉はもちろんとして、ルッキズムとみなされる表現などは、〝言葉狩り〟ではなく、細心の注意を払って避けることが大事なのだと思う。
そう言えば、元・近鉄バッファローズのピッチャーだった佐野重樹さんは、自らも認める愛称として「ハゲ魔神」と名乗り、あえて帽子を飛ばす「ピッカリ投法」を見せていた。
彼などは、ある意味それを「自虐ネタ」にしていたのだけれど、髪が薄いというのも、言ってしまえば個性であり、何よりも見た目通りの事実である。
これは髪の毛が薄い人にすれば、深刻な話題かも知れないが、実は私自身がとっくの昔から、毛沢東さんの頭髪よりも、サイド部分さえさらに少ない、という禿げ方をしている。
そして私は、この状態が全く気にならない。無いものは無いのだし、それで人間性が変わるわけでもないと思っている。だから、人から禿げについて何かを言われても気にならない。
でも、そんな状態が自分では気に入らない人もおられるし、そんな場合、人から何か言われるのがとても嫌だと思う。だから、言葉一つで人を傷つけるかもしれない。
私が関わっている、「やさしい日本語」という考え方の根底にあるのは、「言葉のユニバーサルデザイン化」というか、「言葉のバリアフリー化」だと思って活動をしている。
今日は病院の見舞いの件から、こんなことまで、いろいろと考えてしまった。でも、やはり言葉を大切にするという習慣は、この先もずっと大事にしたいと思う。