7日付のこのブログで、「ゼノフォビア(xenophobia)」というテーマのネットニュースの記事のことを書いた。
「ゼノフォビア」とは、「外国人嫌悪」「外国人恐怖症」を意味する言葉だということも、その時に説明した。
もっと噛み砕いて言えば、「異文化圏からやって来た外国人とは接触をしたくない」という意識を持つ人のことだと思えば、わかりやすいと思う。
ヨーロッパのフランスやドイツなどで、「極右政党」という言い方をされるグループが台頭している。何をもって「極右」と言うのか、私にはよくわからないけれど。
ただこの「極右政党」と表現されるグループは、中東や北アフリカなどからヨーロッパにやって来る、大量の移民や難民の受け入れを拒否しよう、という主張を掲げている。
この部分が、「極右」というレッテルを貼られる、最大のポイントかもしれない。第二次世界大戦当時の、ヒトラーやムッソリーニを思い起こさせる、ということなのだろうか。
そしてアメリカも、大統領選挙を巡って「もしトラ」という言葉が言われ始めている。「もしもトランプ氏が大統領に返り咲いたら…」ということだ。
その時は、きっと「メキシコとの国境管理を厳重にする」という政策が開始されるだろう。そして、この間、不法入国した人たちを摘発し、送還するかもしれない。
こうしたヨーロッパやアメリカでの動きも、その国の国民による「ゼノフォビア=外国人嫌悪」から発している状態、と言っても良いように思われる。
7日付のブログに、「ゼノフォビアは、人類の歴史を通じて普遍的に存在してきた人間の本能的な反応のひとつ」だという指摘も挙げておいた。
きわめて根源的な問題として、人間同士の争いの中に〝部族間の闘争〟というケースがある。これが最も素朴な形態としての、「ゼノフォビア」そのものかも知れない。
こんなことを再び考え始めたのは、今日配信されていたダイヤモンド・オンライン誌の、とある記事を見たからなのだけど。
「外国人に占拠される日本の市区町村『衝撃予測』、2050年に外国人比率100%の街も出現する〝なぜ〟」と題された、不動産コンサルタントの沖有人さんの記事だった。
この方は、不動産コンサルタントという立場から、2050年に〝消滅する自治体〟というだけでなく、日本人がいない自治体が発生するかもしれない、と仮説を提示されていた。
先月に幕を閉じた国会で、改正入管難民法が可決・成立し、悪評が高かった「技能実習」制度に変わり、「育成就労」制度が創設された。
それによって、これまでの在留資格の業種(介護・宿泊業、建設、農業など)に加えて、「自動車運送業や鉄道など4業種が追加」され、受け入れ人数も大幅に増える。
一方で日本人は出生数が80万人を下回り、高齢者は2040年ころをピークに大量にいなくなって人口が減少するから、結局〝日本人不在〟の自治体が生じる、という指摘だ。
この場合も、人口という数字の変化の事実だけを述べているように見えるけれど、その根底には「ゼノフォビア」という意識があるように、私には思われるのだ。
「外国人嫌悪」「外国人恐怖症」と言ってみても、現実にはすでに350万人の定住外国人が暮らし、この先、もっと急増すると記事でも指摘されている。
だから、好むと好まざるとにかかわらず、これからはもう外国人が私たちと一緒に暮らすのが当たり前の社会になって行く。私たちも、それを前提に考えないといけない時代だ。
ヨーロッパの「極右政党」の主張のように、外国人をこの国から排斥したところで、それで問題が解決するとも思えない。いや、むしろ今以上に、生活面での困難さが増すだろう。
私たちが、今すぐにでも着手しなければならないのは、定住外国人は日本人に不利益を与える存在ではなく、一緒に暮らす隣人であるという、私たちの側の意識改革である。
しかも、それは単に私たちの意識を変えるだけではなく、定住外国人にとって住宅・医療・教育などの面でも、生活しやすい社会へ変化させて行くことにもつながるべきだ。
これには、草の根の市民活動も重要だけれど、その前提として、政治が方向性を明確にすることが何よりも急がれる。
その向かう先は、日本人の住民がいなくなって自治体が消滅する、というのではなく、日本人と定住外国人が〝一緒に暮らす自治体が存在する〟という時代だ。
「外国人に占拠される日本の市区町村」などという発想は、違うだろうと思ってしまう。