週末には節分から立春へ | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

今日は一日、どんよりとした曇り空。いつ雨が落ちてきても不思議ではない空模様に。こんな日は心も弾まないし、出掛ける意欲も失せる。

 

今日で1月も終わり、今週末の土曜日は「節分」。3年前、がんが発覚して初めて入院をした後、2回目の入院までの間に節分があったので、私は壬生寺の節分会に行った。

 

 

 

このお寺では「炮烙」に願い事を書いて奉納し、それを4月の壬生大狂言の公演で「炮烙割り」として、表演の中で割っていただける。こうして、願い事が叶うと言われている。

 

 

 

だから私は3年前の節分に、「病気平癒」と書いて奉納した。その甲斐があってかどうかはわからないが、3年を経過した今も、とりあえず普通に日常生活が送れている。

 

それにしても、先日の京都新聞には「京滋の節分ガイド」として、各寺社で行われる節分行事の内容の特集が組まれていた。これを見ると、たくさんの寺社で行事が予定されている。

 

 

 

その中でも、多くの神社で実施されるのが〝古神札の焚上げ〟であり、もう一方で、節分らしい行事は「鬼追い」と「豆まき」ということになっている。

 

子どものころは、「豆まき」の後で年齢の数だけ豆を食べると言われて、子どもの私はせいぜい10粒前後だが、もし80歳になれば、80粒も食べるのかと不思議な気がした。

 

その疑問を素直に大人にぶつけてみたところ、60歳代なら6粒、70歳代なら7粒食べると言われて、何だか騙されているような気になった記憶がある。

 

あれは、真面目に答えてくれたのか、それとも〝うるさい〟から適当に答えたのか。きっと後者だと思う。つまり、子どもだから軽く〝あしらわれた〟のだ。

 

 

 

ただ、「豆まき」用の大豆もボリボリと食べれば、それはそれで結構おいしいものだった。

 

それにしても、豆まきとは言っても家庭であれば、「鬼は外」と言いながら「鬼」の面を着けたお父さんに、子どもがバラバラと豆をぶつけて、みんなで笑い合うと思う。

 

一方で寺社の「豆まき」の行事は、豆粒そのものをバラバラと撒いたのでは、誰も受け取ることができないから、紙の小袋などに入った豆を放り投げる。

 

最近ではそれも危険だったり、受け取れない人がいたりするからと、袋入りの豆を参拝客に直接授与したり、中には抽選で〝景品付き〟の豆袋を、有料で下げ渡すところも多い。

 

 

 

そんなこんなで、〝節分=豆まき行事〟のようになってしまっている。だけど、本来の姿はそれではなかったはずだ。そもそもが、宮中行事から発しているわけだから。

 

節分の日は「立春」の前日であり、翌日の「立春」から新しい季節が始まるという、区切りの日ということになる。

 

特に冬が終わりを迎えるという季節の変わり目に、外部から〝邪気=鬼〟が入って来ないように土牛を作って各門に立て、〝邪気=鬼〟を追い払うという宮中の儀式だった。

 

 

(鬼のパンツは強いぞ~/吉田神社参道にて)

 

この儀式は「大儺(だいな)」とも呼ばれていて、悪鬼を恐れさせる舞を舞ったりした。ここから、いわば「大儺で追い払う」=「追儺」となったのだろう。

 

 

 

また、豆を撒くのは宮中行事の「大儺」には見られず、「豆=魔滅」が発祥などとも言われるように、民間起源の風習のようにも思われる。

 

比叡山・延暦寺の中興の祖・慈恵大師良源(元三大師とも呼ばれる)は、魔を調伏できるほどの法力がある師僧として慕われるようになり、「元三大師信仰」として広まった。

 

 

(蘆山寺は元三大師が開創したお寺で、節分には「鬼おどり」が行われる)

 

その結果、魔を滅する大師だから「魔滅大師=豆大師」として、元三大師の〝お札〟と豆が関連付けられ、「豆まき」と「鬼=邪気」を追い払う儀式が一体化したのではないかと思う。

 

 

(蘆山寺のお札「角大師」)

 

つまり、鬼(穏=おん-見えないもの)を払い除ける儀式と、季節の変わり目という儀式、そして「魔を滅する」儀式が一体化したものが、今の節分という形式になったのではないか。

 

また京都の吉田神社は、「方相氏」という「四ツ目」の仮面をつけた人物が、「鬼追い」をする出し物が演じられる。このように、いくつかの儀式の複合と言えるだろう。

 

このような、〝わけのわからなさ〟が存在する〝季節の儀式〟として、各地で「鬼追い」と「豆まき」が統一性も無く行事として定着している、というのが真相のように思われる。

 

とにかく何だっていいので、私の身辺から〝病魔〟が去ってくれることを願いつつ、今年もどこかのお寺なり神社へお参りに行こうとは思っている。