北白川天神宮というお宮さん | がいちのぶろぐ

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今日は、我が家からさして遠くない「北白川天神宮」まで散歩に出掛けていた。地図で言えば、あの「銀閣寺」から北西方向に直線距離で200m余り離れたところにある。

 

 

 

ここは「天神宮」というけれど、祭神は菅原道真公ではなく医薬の神様「少彦名命」となっていて、北白川一帯の産土神という位置付けの神社である。

 

 

 

この北白川一帯に人が住み始めた歴史は、古く縄文時代にさかのぼるらしい。その時代の遺跡が北白川地域に存在し、多くの土器や石器が発掘されている。

 

ただ、この「北白川天神宮」が現在地に鎮座したのは、室町幕府第8代将軍の足利義政が「銀閣寺」を建てる際に、元あった場所からこの地へ移転した、とされている。

 

 

 

いずれにしろ、そんな訳で、けっこう由緒正しそうなお宮さんではあるのだが、だからと言って特に有名なお祭りがあるということでもなく、あくまで地元の神社という感じである。

 

もっとも、この「北白川天神宮」の前を流れている「白川」は、白川砂が流れて来て川底が白く見えるから「白川」であり、流れ流れて行く先の祇園・白川の夜桜は有名だ。

 

 

 

そして、白川砂のもととなる「白川石」も、建材や墓石などに広く使われてきた歴史を持っている。だから、境内には「石恩」と刻まれた白川石への〝感謝のモニュメント〟がある。

 

 

 

 

また、この地域一帯はかつて京の都の郊外で、花の栽培が盛んだったので、「花いらんかぇ~」という売り声とともに、花売りの行商に歩く「白川女」でも知られていた。

 

 

 

今も時代祭の行列には、この「白川女」が、薪炭売りの「大原女」などとともに、昔の衣装風俗で行列に加わっている。

 

 

 

だから境内には、この「白川女」と「花塚」の碑が立っている。碑文を読むと、「帯は後水尾天皇の皇后東福門院よりご下賜の御所染めである」となっていた。

 

 

 

 

その「花塚」と向かい合うように、明治天皇御製の「いはほきる 音もしめりて 春雨の ふる日しづけき 白川の里」という歌碑があり、その脇には西行法師の歌碑もある。


 

 

 

巌を切る音だから、その頃から石工が「白川石」を切り出していたということだろう。こうしてみると、村の鎮守さまといった神社が、なんとも〝由緒〟の塊のように見えて来る。

 

 

 

そして、石段を133段上がった先に拝殿と本殿がある。本殿は1間社流造の小ぶりなお社だが、屋根が前に迫り出して向背になるのでなく、唐破風作りのようになっていた。

 

 

 

ここまで上がって来ると、京都市の北部が一望出来て、この神社と向かい合うように、はるか西の山に〝五山の送り火〟の一つ「舟形」が見えていた。


 

 

またこの「北白川天神宮」の鳥居の前の、白川に架かる橋は「萬世橋」という名で、明治27(1894)年に「北白川の石工により、卓越した技術を集結して造られた」ということだ。

 

 

 

 

このお宮のホームページに、そのように書かれている。確かにほんの小さな橋だけれど、作りと言い装飾と言い、とても繊細なものが窺えて、なかなかに見るべきものだと思う。

 

 

 

なんと言うことのない、ちょっとした散歩だったけれど、こんな近くにも見るべきポイントがあるということを、恥ずかしながらこの歳になって初めて知った次第である。