鬼門除けのお猿さん | がいちのぶろぐ

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この2日間は外出をしなかったので、どうにか正月疲れというか、何となく感じていた疲労感も減ったように思う。だから、今日の午前中は家の近くをぶらついていた。

 

ぶらつくと言っても、歩くには少し距離があったので、自転車で出掛けていた。行った先は「幸神社」。「さちじんじゃ」ではなくて、「さいのかみのやしろ」と読む。

 

 

 

「さいの神」と言えば、「道祖神」のことだ。小さな神社の前に掲げられている駒札にも、次のようなことが書かれていた。

 

「桓武天皇により、皇都の東北の鬼門除け守護神として御造営され(中略)社名を『出雲路道祖神』と云い」ということだった。やはり「道祖神」という認識だった。

 

 

 

それとともに、「鬼門除け守護神」となっている。現在この神社は、京都御苑(御所)の北、相国寺の東に当たる場所にある。我が家から歩くには、微妙に遠い場所である。

 

 

 

この現在地を判断すれば、京都御苑の中にある「御所」から見て、確かに北東の鬼門の方角だと言っても、何とか言えないことはない。

 

だが駒札には、「江戸時代の初め、現在の地に御遷座された際、『幸神社』と改め」られたと書かれている。だから、遷座の以前は、もっと北東に寄った場所にあったと思われる。

 

現在、鞍馬口通の賀茂川に架かる橋は「出雲路橋」と呼ばれており、その付近は出雲路という地名になっている。言い換えれば、下鴨神社の北西の辺りになる。

 

要するにこの出雲路橋の周辺一帯は、それこそ平安朝以前から出雲族が住んでいた地域と考えられており、鞍馬口通という名称からも、鞍馬方面から都に入る「入口」だった。

 

 

(出雲路橋近くにある鞍馬口地蔵・上善寺)

 

そうした、いわば旧街道筋にあった「道祖神」が「出雲路道祖神」だったと考えても、それほどの無理はないだろう。それが、ちょうど平安京の初期の内裏から見て北東方向だった。

 

平安京の初期の内裏は、現在の地名では「大宮通り」と「下長者町通り」が交わる辺りだったから、そこを起点に考えると、出雲路橋の辺りが北東の鬼門に当たっている。

 

 

(平安京の内裏趾が整備されている)

 

ということで、元々は街道筋というか、平安京へ向かう道筋に祀られていた「道祖神」が、鬼門除けという位置付けになり、それが江戸期に遷座して現在地になった。

 

またこれが偶然というか、江戸期には「御所」自体も現在地に移っていたので、遷座した場所がまた鬼門の方角になる、ということだった。

 

そこで改めて、「幸神社」が御所の鬼門の守り神となった。一方で現在も、御所の北東隅が鬼門除けに少しだけ凹んでいて、この凹みの部分に「厄除けの猿」が置かれている。

 

 

(京都御所の鬼門の部分の凹み)

 

(上の凹みの写真の左端の部分に、見えにくいが御幣を担いだ猿がいる)

 

金網に囲まれていて少し見えにくいのだが、この凹みの部分を見上げると、「御幣を担いだ猿」の像が据えられているのが暗い中に見える。

 

そして、今日出掛けた「幸神社」の本殿の北東隅にも、同じような「御幣を担いだ猿」の像がある。このように、「御所」に悪鬼による祟りがないように猿たちが守っている。

 

 

 

 

実はこの猿たちは、はるか北東方向の比叡山の麓にある「赤山禅院」の屋根の上にいる「御幣を担いだ猿」と向かい合うようになっている。

 

比叡山は都の北東隅にある高い山で、そこには延暦寺がある。都の北東に当たる「鬼門」を守るために、こうして人知れず(?)猿たちも頑張ってくれているのだ。

 

 

 

そのことを確かめたくて、今日は「幸神社」まで、初詣というにはもう7日も済んだけれど、出掛けていたというわけだ。

 

今となれば、鬼門という言葉すら死語になりかけているかもしれない。だけど昔から、家の敷地でも、北東の鬼門には何かしらのことをしていた。

 

京都の町中では、敷地の北東角に小さな空地を設けたり、少しのスペースだが玉砂利を敷いたりしている家もある。こうして、ささやかな鬼門除けのための注意を払っている。

 

こんな目で見ると、町歩きもちょっとだけ楽しいことに出会える。