印象派の美術展という〝らしくない〟こと | がいちのぶろぐ

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京都新聞が主催する美術展の、招待券が入手できたので出掛けていた。私が絵画を見に行っても、まったくもって「猫に小判」以外の何物でもないのだけれど。

 

もったいないにも程がある、というくらいの出来事だろうと思う。「最後の印象派」である「シダネル」と「マルタン」という、2人のフランス人画家の絵画が並べられていた。

 

「シダネルとマルタン展」なのだが、私には全く初耳の名前だ。歴史的なことを言えば、19世紀末から20世紀初めのころ、第1次世界大戦をはさんだ時期くらいに活躍したらしい。

 

 

 

作品を見れば、「印象派」だと思う。ただ、そもそも「印象派」の絵画ってどんなものなのか。それすらろくに分かっていない。だから「猫に小判」となるのだ。

 

会場は美術館「えき」KYOTO。京都駅の駅ビルの7階にあった。この美術館には、初めて行った。駅ビルにある130段余りの「大階段」の、かなり上になる7階にあった。

 

 

 

この高さまではあまり来たこともなかったから、それだけでもなかなか楽しい経験だった。いやもう、京都の町のことをろくに知らないから、なんとも恥ずかしい限り。

 

この展覧会で、ちょっとびっくりというか、面白いと思ったことがあった。それは、並べられている多くの絵画の中で、何点かが「撮影可」になっていたこと。これは初の経験だった。

 

いやもう〝へぇー〟と思いつつも、当然ながら撮影をいたしました、ハイ。それにしても印象派ねぇ。

 

 

 

「印象派」と言われて急に出て来る名前は、セザンヌ、クロード・モネ、ドガくらいなものだろう。モネと言えば、美術の教科書で見た「睡蓮」か「日の出」だろうか。

 

ドガは「舞台の踊り子」くらい、セザンヌは「自画像」かなぁ。どれも、中学か高校の美術の教科書で見た記憶があるくらい。以上で終わり、としか言いようがない知識量。

 

ただ、この機会にと思って、帰宅してから少しだけ「印象派」を調べてみた。なるほどというか、やはりというか、「光の質感」を重視し、境目をあまり目立たせない画風らしい。

 

今日見てきたシダネルとマルタンというお二人も、私が見た限りでも、光の当たり具合と、それが作り出す翳、そして光線がもたらす色合いは凄く感じることができた。

 

建物に朝日が当たっているような、やや赤みを帯びたというか、黄色味がかった色に描かれた石の家の壁の色や、対照的にうす暗くなった日陰の部分の色使い。

 

また人物画であれば、対象の人物が周囲に溶け込んでしまいそうな、境目が淡あわと周囲に溶け込んで行くような、そんな印象を強く持った。

 

小品が多かったけれど、全部で70点ほどは展示されていただろうか。なるほどなぁ、これが「印象派」なのか、と思った。感覚的には、何となくドガに近いのかなぁ。

 

いえいえ、私がそんな偉そうなことを言いますまい。久しぶりに美術展に行って、これはこれで良いものだと思った次第。

 

後は京都駅前の地下街PORTAで、昼食に回転ずしを食べて帰って来た。こんな日も、あって良いだろうということで。