総裁選も関係なく私は散歩に | がいちのぶろぐ

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今日、自民党の総裁選挙が行われた。菅総理が突然の不出馬宣言をしてからほぼ1ヵ月。紆余曲折はありながらも、岸田文雄・前政調会長に決定した。

 

河野太郎大臣は国民的な人気があるとか、高市早苗・元総務大臣は安倍・前総理が強烈なプッシュをしているとか、外野席は賑やかだった。

 

ところで、新総裁となった岸田氏は〝発信力の弱さ〟が弱点だ、と言われ続けてきた。今回も、一般党員の投票結果は、トップの河野氏の44%に対して岸田氏は29%だった。

 

一般国民の目線と近い一般党員の投票では、岸田氏はやはり人気が今ひとつなのだ。この状態で、選挙の顔として次の衆議院議員選挙を勝てるのかしら、と思ってしまう。

 

そんなことより、私は今日の午前中また不要不急の外出で、〝散歩に行く〟と言い残し、〝一休さん〟で有名な大徳寺まで出掛けていた。

 

 

 

大徳寺は比較的近くてバスの便も良いいので、何度も出かけているのだが、やはり何となく行ってみたくなるお寺だ。〝ファンのお寺さん〟というのも変な言い方だけど。

 

 

 

まあ〝ご贔屓のお寺〟の一つと言っておこう。それに行くたび、何かと新しい発見がある。今日はまず、山門の上に掲げられた額「金毛閣」に目が止まった。

 

 

 

この山門は連歌師の宗長が寄進し、天正171589)年に千利休によって上層「金毛閣」が設けられて完成した。しかし、これが悲劇を生むことになった。

 

この上層に千利休像を安置したところ、天下人になっていた豊臣秀吉が、「勅使などが通る時も、あんたに頭を踏まれながらこの門を通るのか」と激怒したらしい。知らんけど。

 

そもそも天正151587)年には、北野天満宮で秀吉が主催した「北野大茶湯」が行われ、千利休がその大茶会を取り仕切っていた。それなりに、良い関係だったと思う。

 

それから2年後に、千利休が大徳寺山門の〝上層〟を作ったことで事件が勃発した。秀吉は問題の〝千利休像〟を「一条戻り橋」で〝磔の刑〟にしたらしい。

 

〝木像〟をわざわざ〝磔の刑〟にするのも、ちょっと大人げない気がするけれど、同時に利休本人も、実家があった大坂・堺で蟄居を命じられている。

 

まあその後もいろいろとあったのだろうが、京都に戻された千利休は天正191591)年228日に自害して果てている。

 

それで命日に当たる28日には、今もなお表千家・裏千家・武者小路千家が交代で、千利休のお墓がある、大徳寺の塔頭「聚光院」で「利休忌」を行っているそうだ。

 

 

 

今日は、この「聚光院」にも行ってみた。方丈のすぐ西側にある。ただ、残念ながら拝観はできなかった。無情にも「拝観謝絶」と立札が立っていた。

 

 

 

この「聚光院」の西隣には、本能寺の変で亡くなった織田信長を、明智光秀を討った豊臣秀吉が、そのすぐ後で盛大に葬儀を執り行ったという「総見院」もある。

 

 

 

こちらは門前に「信長公廟所」という石碑は立っているけれど、門はぴしゃりと閉じられたままだった。

 

 

 

そう言えば大徳寺本体の「仏殿」の前には、京都市指定天然記念物となっている「イブキ」の巨木があった。今までは、こうした樹木などに目が行くことがあまりなかった。

 

 

 

 

駒札に書かれていたから、〝へぇ~〟となってしみじみと見た。「一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、貴重である」となっていた。

 

 

 

確かに大木であり、貫禄タップリな古木だった。今まで何度も来ていたけれど、いっぱい見落としていたのだなとあらためて思う。

 

 

 

枯山水の庭で有名な塔頭の「大仙院」は、〝どうぞ拝観を〟だったけれど、多くの塔頭は拝観謝絶だったり、現在〝拝観休止中〟となっていた。

 

 

 

 

この週末に向かって、台風の影響で天気が思わしくないようだが、ようやく散歩をしても大汗をかくこともない季節になった。私は病魔を振り払うべく、散歩を続けよう。