オリンピックが持つべき「価値観」の転換とは | がいちのぶろぐ

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今日配信の時事通信の、「『二つの限界』示した東京五輪 国家的イベント分析 東京大大学院の吉見俊哉教授に聞く」というインタビュー記事を面白く読んだ。

 

この中で吉見氏は、「開催に反対だった人だって、一つ一つの試合を見れば興奮したり感激したり」するけれど、「それは五輪全体に対する評価とは必ずしも一致」しないという。

 

それは「五輪というフレームと、個々の試合というフレームはレベルが異なり、分けて考えないといけない」からだという。

 

その通りだと思う。個々別々の試合では、見る側のそれぞれの思い入れもあって、「興奮したり感激したり」することは十分にあり得る。

 

しかしその瞬間が過ぎれば、総体として存在する〝空虚なお祭り〟としてのオリンピックが、そこに空しく横たわっているということだ。

 

 

 

吉見氏によれば、そもそも今回のオリンピックは、「64年東京五輪の頃の日本を回顧する動きが」底流としてあったと見ておられる。

 

当然だが64年当時と現在とでは、日本は全く違う状況に置かれており、「それなのに無理やり同じことを繰り返そうとしたところに問題が」あったという。

 

吉見氏は続けて、「五輪は何かに『打ち勝つ』ために開催するものでは」なく、「何らかの人類的価値とか新しい都市の実現とかのビジョンが本来は理念として必要」だと述べる。

 

しかし、84年のロサンゼルス・オリンピックに際して、オリンピック自体が商業主義に大きく舵を切り、「新自由主義が世界に広がっていく動きと軌を一にしていた」という。

 

そして今回の東京オリンピックで、「新型コロナウイルスのパンデミックが示したのはこのグローバリズムの限界」だった。

 

その結果、「グローバリズムが曲がり角にあるように、84年型の五輪も今後方向転換せざるを得なくなる」というのが、吉見氏の意見だ。

 

とりわけ、グローバリズムによって「成長主義的な価値観で社会を変えていく時代はもう終わって」いると考えておられる。

 

だから21世紀社会には、「より速く、より高く、より強く」ではなく、「『より愉(たの)しく、よりしなやかに、より末永く』という価値が必要」だという意見だった。

 

ここで「より愉しく」は『Quality of Life(生活の質)』であり、「よりしなやかに」は『レジリエンス』、「より末永く」は『サステナビリティ(持続可能性)』だと言われる。

 

〝生活の質の向上〟や〝社会のしなやかさ・回復力〟、それに〝持続可能な社会を目指す未来志向〟こそが、オリンピックという大イベントが提起する中味だというのだ。

 

とても良くわかる。そうだと思う。そして今回のオリンピックのドタバタが示していたのは、こうした『未来志向』の意識の無さ、〝懐古趣味〟が見せる『非現代性』だった。

 

それを如実に表していたのが、組織委員会の森・前会長の放言問題だったし、先週から今日にかけて、TBSの情報番組「サンデーモーニング」での張本氏の発言を巡る騒動だろう。

 

むしろJOC(日本オリンピック委員会)の元・理事で、柔道の山口香氏などが煙たがられてしまうという、オリンピック関連組織や政府・東京都の姿勢が〝頑迷固陋〟なのだ。

 

吉見氏が社会学者の眼から、オリンピックの変節というか変遷と、社会の在り方の変遷の関係を分かり易く読み解いてくれた。

 

これで、私も随分とスッキリした。いったいなぜ、今回のオリンピックがこれほど問題点の連続になり、最後まで歓迎されないイベントになったのか、良く理解できた。

 

この時事通信のインタビュー記事は、現時点での最も優れた東京オリンピックの総括だと思う。

 

『より愉(たの)しく、よりしなやかに、より末永く』

このスローガンは良いなぁ。