秀吉と家康にまつわる京都トリビア | がいちのぶろぐ

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今日配信されていたインターネット情報誌「TRIP EDITOR」には、英学(はなぶさ・がく)さんの、家康と秀吉にまつわる「授業では習わない、家康の本当の顔」という〝京都トリビア〟の記事が掲載されていた。

 

それに触発されて、私もこの豊臣秀吉と德川家康の間にあった面白い確執を少し紐解いておきたい。もっとも最後にネタを〝白状〟するけれど、これも受け売り。

 

太閤さん豊臣秀吉は死後、京都女子大からさらに山の上にある東山の〝阿弥陀が峰〟に葬られた。その場所は、現在も「豊公廟」として存在している。

 

 

 

しかし、豊臣家を滅ぼして天下人になった德川家康は、秀吉が神として祀られることを望まなかった。

 

 

 

東山に秀吉が祀られていれば、人は朝の太陽を拝むのと同時に、自然と秀吉にも手を合わせていることになる。家康はこれが許せなかったと思われる。

 

この「豊公廟」から西に真っ直ぐにたどって行くと、東山七条に京都国立博物館がある。この場所は、昔大きなお寺だった「方広寺」の敷地の一角で、「方広寺」には奈良の大仏より大きな「京の大仏様」があった。

 

 

(現在の方広寺本堂)

 

この「方広寺」の釣鐘には、「国家安康」という文字が浮き出ていた。「家」と「康」の文字をぶった切っているからけしからんと家康が難癖をつけて、大阪冬の陣につながった釣鐘として知られている。

 

 

(方広寺の「国家安康」の釣鐘/少し白く見えるのが印)

 

もっと言えばこの鐘にはもう一つ、「君臣豊楽」という文字もあって、君の豊臣氏のお蔭で楽しく過ごせている、と取れなくもない。これはまあ、どっちもどっちのケンカの種だろう。

 

 

 

この釣鐘は現在も残っていて、見物に来たお客のために、お寺側が「国家安康」のところにマークを付けているのはご愛嬌だけど。

 

その方広寺の南側に、今も「豊国神社」がある。これがいわば「豊公廟」の麓にあって、秀吉を祀る神社ということになる。

 

(豊国神社)

 

さらに西へたどると、堀川通りに面して西本願寺がある。もともと本願寺はこの「西本願寺」だけだった。いわば、「豊公廟」から「豊国神社」を経て「西本願寺」まで東西に一直線に並んでいた。

 

 

(西本願寺阿弥陀堂)

 

この西本願寺は、大坂にあった石山本願寺が織田信長に攻め滅ぼされた後、秀吉が京の地に土地を与えて移させた。つまり、秀吉の〝息がかかっている〟お寺ということになる。

 

さらに言えば、京都国立博物館と東山七条の交差点をはさんだ東には、現在は「智積院」という大きなお寺があるけれど、このお寺はその前は秀吉の息子で幼くして死んだ鶴松を弔うために建てた祥雲寺というお寺だった。

 

ここも秀吉に攻め落とされた紀州・根来寺の僧・玄宥僧正を招き、家康が前のお寺を破却して、「智積院」としてあらためてお寺を作った。

 

 

(智積院から西へ七条通/右手の柵が京都国立博物館)

 

玄宥だって自分のお寺の根来寺を秀吉に攻め落とされている以上、秀吉が好きなはずはない。だから当然この誘いに乗る。こうして「智積院」は、秀吉の息子の寺から秀吉嫌いのお寺になった。

 

最後は、「西本願寺」のすぐ東側に、新たにもう一つ本願寺を作った。これが現在の「東本願寺」になる。ここは、12代教如上人が家康から寺地を与えられて、西本願寺から独立した格好になる。

 

これで、「豊公廟」から息子の寺「祥雲寺」、「豊国神社」、「西本願寺」へと一直線につながっていた〝秀吉ライン〟が、ズタズタに引き裂かれたことになる。

 

 

 

さらに「豊公廟」にあった秀吉の遺体は、〝墓暴き〟されて「方広寺」の一隅へ移されている。

 

 

(かつて「京の大仏」の建屋があった場所は公園に)

 

家康とすれば、自分に征夷大将軍の宣下をしてくれた天皇が住んでいる京都という地を、〝秀吉カラー〟から、とにかく徹底的に自分の色に変えてしまいたかった。

 

だから、こうして秀吉ラインをぶっ潰した後、德川家は家康の孫(第2代将軍秀忠の娘)にあたる徳川和子(まさこ)(後に東福門院和子)を、後水尾天皇の皇后にしている。

 

家康が築城を始めた二条城が、2代秀忠と3代家光の手で最終的に完成したが、後水尾天皇はきっちりと二条城を見学に行っている(まあ、これは見学ではなく「行幸」なんだけど)。

 

 

(ライトアップされった二条城東大手門)

 

それはそうだろう。自分の奥さんの実家が総がかりで建てた〝でかい家〟に、新築祝いに行かないわけにはいかない。これは世間的には「公武和合」と称しているけれど。

 

ということで、これで無事に豊臣カラーは一掃されて、德川一色になったということになる。

 

というようなことで、関ヶ原の戦いの後、3代将軍家光の時代になって德川幕府が固まるまでの間には、こんなにも色々なエピソードが京都という場所を舞台に行われていたことになる。

 

家康という人も、けっこう〝しつっこい〟人だったと思う。とことんやるというか、〝これでもか〟みたいなものだ。

 

この京都のトリビアというか、面白いエピソードは、2年ほど前の台風が来るぞという日に行われた〝町歩き〟で、案内役を務めてくれた京都大学の歴史地理サークルの学生さんに教えてもらった(これが種明かし)。

 

 

(町歩きで準備してくれていた地図/豊臣を葵の徳川が)

 

京都に長く暮らしている年寄りが、〝つい23年前に京都へ来ました〟という学生さんにたくさんのことを教えてもらったことになる。お恥ずかしい話だが。

 

それでも、台風接近で雨が強く降る中、熱心に案内して教えてくれた学生さんは、なかなかの好青年でした。